北朝鮮の海外労働者


韓国紙セゲイルボ・コラム「説往説来」

 2000年代の初め頃は中国内の北朝鮮食堂の全盛期だった。寝て起きると北朝鮮の食堂ができるような状況だった。雨後の筍(たけのこ)という言葉がぴったり合っていた。韓国企業の中国進出ラッシュの時代だったので、食堂はどこも韓国人客でにぎわった。揚げ句の果てには朝鮮族の実業家まで手を出した。北朝鮮から従業員を連れてきて食堂を開いた。北京の玉流館はまさにそんなところだ。

 平壌大成山館が北京の望京に開店したのも、その頃だ。歌と踊りの公演は普通の北朝鮮の食堂と変わらなかった。しかし、食堂というよりはカフェ・バーに近かった。そこの総支配人は同じマンションに住んでいて、時おりエレベーターで出くわした。40代後半の女性で、見た目がきれいだった。身なりも普通の北朝鮮住民とは違った。平壌の実力者だとも言われていた。そこの従業員たちも“熱砂の地”中東や“氷雪の地”シベリアできつい労役を行う北朝鮮労働者と色合いが違っていた。

 ある日、そこで小さな騒動が起こった。従業員の何人かが突然、平壌に召喚されるというのだ。ギターや歌、踊りの腕前が尋常ならぬ顔なじみの女性従業員も召喚リストに載っていた。対北事業を行う韓国の実業家と平壌大成山館で会う時にその従業員がこう語った。「今度、私も平壌に帰ります」。そして涙をにじませた。「いつかまた会いましょう」という言葉を残して…。

 その頃、北朝鮮は海外食堂を管理する組織を改編した。外貨稼ぎにいっそう拍車をかける始めたのはその時だ。中国の山東省にヘダンファ・キムチ工場まで造って、韓国にキムチを輸出しようと言っていた。さまざまな方式で北朝鮮が海外に派遣した労働者は10万人に近いという。

 昨日は国連安保理決議2397号で、国連加盟国が自国内の北朝鮮労働者を全て出国させるようにした最後の日だ。国連決議はきちんと履行されただろうか。きちんと履行されたならば、今頃は海外の北朝鮮食堂から歌声が聞こえないはずだ。シベリアの伐木場でも北朝鮮労働者は姿を消さなければならない。果たしてそうだろうか。「明日も開くので来て」と言ったのは、中国・丹東の北朝鮮食堂の従業員だ。国連制裁? もしかしたらニューヨークだけで通じる言葉だと思っているのだろうか。

 それでも今頃は、海外の北朝鮮労働者は夜も眠れずにいるのではないか。不安な明日を心配しながら…。(12月23日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。