特別対談 直筆御製に記された昭和天皇の大御心(下)

直筆御製に記された昭和天皇の大御心(上)
直筆御製に記された昭和天皇の大御心(下)

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引き継がれた家庭の温かさ

民族と国柄守るため御聖断 櫻井
旧皇族に変わらぬお身内意識 竹田

昭和天皇は終戦に際して<身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて>など4首の御製を詠まれたことは、木下道雄宮内庁次長が著書で明らかにしています。その中に<国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり>という御製があります。しかしこの御製はなぜか、『おほうなばら』にも『昭和天皇実録』にも載らずいわば封印されたかたちになっています。「国がら」は「国体」を意味することから、その後新憲法が制定されたこともあり、徳川侍従長が採らなかったわけですが。

櫻井よしこ氏

櫻井よしこ氏

 櫻井 敗戦の結果、本当に日本らしくない政策を押し付けられましたが、それを受け入れざるを得なかった。当時の国際世論は非常に厳しく、日本をつぶしてしまおうという勢力がソビエトにもカナダにも豪州にもいた。天皇陛下に対する見方も非常に厳しくて、極刑に処せとか永久追放とか、米国の世論調査では7割くらいが厳しい意見でした。日本国民も空爆で産業基盤が破壊され、最貧国の位置に突き落とされた中で、昭和天皇が敗戦を受け入れたのは二つの理由があると昭和天皇御自身が語っておられます。

 一つは日本民族を絶やさないため、もう一つは国柄がこのままでは消されてしまうということです。日本民族として国柄を守りながら生き残るために、ありとあらゆる苦難に耐えなければならないとお考えになり、敗戦とそれに伴う理不尽な占領統治も呑(の)み込んだわけです。しかし、そのお気持ちは永久にということではなくて、いつの日か必ず日本民族として立派な国を再生するというお気持ちだった。<国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり>と詠まれたのには、そういうお気持ちが込められていたことを後の世の人が知ることが大事です。

 未曽有の悲劇の中にわれわれもはまり込んでしまいましたが、先輩たちはこう考えていたと知ることができれば、そこからまた奮い立つこともできます。

 竹田 「孝明天皇紀」にしても「明治天皇紀」にしても実際に編纂に携わっている人たちは、生きている間に公表されない文書を作っています。歴史に関わるそういうすごい作業だったはずなのに、宮内庁が成果主義に陥っているきらいがあります。予算を取っているので、成果を示さなければいけないのかもしれませんが、本来そういうものではない。そう考えると晩年の昭和天皇の御製には歴史に残したいものがたくさんあります。

 櫻井 岸元首相追悼の御製からも、昭和天皇がどのような国家観を持っておられたかが分かります。岸は昭和62年8月に亡くなっていますが、昭和天皇はお具合が相当悪く、開腹手術を受けて手遅れだと判明し、そのまま閉じてしまった、そういう時期に詠まれたお歌です。

一方でご家族のこと、家族だんらんを詠まれたお歌には大変微笑ましいものがありますね。

竹田恒泰氏"

竹田恒泰氏

 竹田 現在の皇室、上皇陛下が、理想的な家族像といえる仲睦まじい家庭をお築きになったのも、皇室がこれほど敬愛されるようになった一つの要素なのかなと思います。昭和天皇も晩年は夫婦手を取って仲睦まじい姿を示してくださったわけで、お后(きさき)のことを詠んでいらっしゃるところもあります。昭和61年7月に<皇后と共に都に歸らぬはすこやかならぬさびしかりけり>。ご公務の関係で、昭和天皇だけ東京にお戻りになりました。健康の優れない皇后と一緒に東京に戻れないのはさみしいという御製ですが、明治時代には天皇と皇族方の人間らしい家族像というものは全くありませんでした。そもそも天皇が皇后を伴って行幸なさるというのもほぼなかったわけです。大正天皇から温かい家族像というものが表現されて、晩年の和歌に、お父さまだった大正天皇との少年の時の情景を詠まれたりしています。家庭の温かさをお父さまから受け継ぎ、昭和天皇も自ら温かい家庭を築き、それをまた上皇陛下にも引き継がれていったことを、御製から読み取ることができます。

 櫻井 体調の優れない皇后さまのことを折に触れて詠んでいらっしゃる。今上陛下・浩宮さまや他のお孫さまたちのことも温かい気持ちで詠っていらっしゃいます。「皇太子・同妃・皇女をつれて那須を訪問した折」の詞書で<紀宮は父母(と)共に朝早くなすにとりこゑたのしくきけり>があります。紀宮さまがお好きな鳥たちの鳴き声にご両親と共に耳を澄ましていらっしゃる光景が浮かんできます。

 弟宮の高松宮さまについても<うれはしき病となりし弟をおもひかくしてなすにゆきたり>と詠まれました。心配だが自分はその思いを外に出さずに那須に行ったと、家族への思いは細やかですね。

御製が記された原稿

皇太子・同妃・皇女をつれて那須を訪問した折り」の詞書で<紀宮は父母(と)共に朝早くなすにとりこゑたのしくきけり>の御製が記された原稿

 竹田 高松宮殿下とは開戦・終戦をめぐってちょっと軋轢(あつれき)がありましたが、殿下に対する晩年の御製はいくつかあります。

 櫻井 NHKに持ち込まれた資料から、当時の皇太子、東宮殿下を「東宮ちゃん」と呼んでいらしたことが分かります。普通の家庭のお父さんが「なになにちゃん」と呼ぶのと同じですね。

 皇太子妃だった美智子さまへの思いもすごく温かいものです。世間では昭和天皇がキリスト教について発言なさった美智子さまに厳しくおっしゃり、美智子さまがご遠慮しなければならなかったように報道されていますが、御歌を見る限りは昭和天皇のお気持ちには常に温かさがあります。

 竹田 さすが生物学者だなと思うのは、植物の名前がすごくよく出てくること。植物の名前を織り込んで季節の移り変わりを機微に感じながら綴(つづ)っていらっしゃる。

昭和天皇の有名な言葉に「雑草という植物はない」というのがありますが、御製でも「むらさきけまん」「ていかかずら」など、われわれが知らないような植物の名前をたくさん詠み込まれていますね。

 竹田 歴代天皇の中でもここまで詠まれている方はいらっしゃらないのではないでしょうか。あとハレー彗星も出てきますが、懐かしく拝見しました。やはり科学者の目を持っていらっしゃいますね。

岸元首相追悼の御製の次に、同じ月に亡くなった旧皇族の山階武彦氏を悼む御製<長々と病にふせし君も又あきたつあさにきえしはかなし>が記されています。

 竹田 旧皇族が民間に下るに当たって、立場は変わるけれども今までと変わらずに皇居に来なさいという言葉を昭和天皇は残していらっしゃいます。旧皇族だから今は皇族ではない、ではなく、昭和天皇からすれば、線引きはされたが何も変わらないというお気持ち。お身内を亡くしたという思いで御製を詠んでいらっしゃるのだろうと思いますね。

 山階宮武彦王は「空の宮さま」と呼ばれ、初めて海軍航空隊にお入りになった方で、日本の航空技術を空で戦う基礎をつくりました。山階野生鳥獣保護研究振興財団を設立した方でもあります。

 櫻井 昭和天皇の大御歌を拝見するといろんな方々の心配をしているご様子が伝わってきますが、皇族の方々を結び付ける絆(きずな)の中に、民間の庶民である私たちの思いを超えた特別の感情があるのでしょうか。

 この頃は兄弟は他人の始まりともいいます。少子化もあって兄弟がたくさんいる家庭が少なくなったこともありますが、日本は人間関係を大切にする民族であるにもかかわらず、兄弟同士の仲の良さよりも悪さが表面化している気がしないでもありません。下世話な質問ですが、皇族の方はどうなんでしょう。

 竹田 歴史的に見ると壬申の乱も兄弟げんかだし、南北朝もそうです。聖書にもカインとアベルなどいっぱい出てきます。太古の昔から今に至るまで、兄弟はよく他人の始まりといいますが、皇族も歴史的には例外ではないのかなと思います。財産であれば分けることができますが、天皇のお立場である皇位を割るわけにはいかないので、それでもめることもありました。

 現在でいえば、天皇陛下と秋篠宮殿下は歴然とした違いがあります。自由の度合いも違うし、注目のされ方も違う。だから、普通の兄弟では想像もつかないような違い、もしかしたら垣根もあったのではないかと拝察しています。

 なので普通の兄弟とはまた違った難しさがあると思いますが、ただ今回新天皇陛下御即位に当たって、上皇、上皇后両陛下がお子さま方お二人をお招きになり、懇談する会を定期的に持たれたというので、もしかしたらあったかもしれない溝を埋めて一体となって皇室をつないでいこうというお気持ちがあったのではないでしょうか。

 それは地ならしというような期間を経て、今は御代替わりもしたので、必要なことだったかもしれません。特に今はお二人の間にわだかまりがあるようには見受けられないので、上皇陛下と上皇后陛下がしっかりとお導きになった結果なのかなと思います。

きょうは、令和の始まりの年にふさわしいお話をありがとうございました。