中学生による同級生刺殺といじめ自殺を取り上げるも掘り下げ不足の文春

◆主犯格に「家庭問題」

 中学生をめぐる事件が相次いでいる。いじめによる自殺で十代の命が失われている。ついに殺人が疑われる事件まで起きてしまった。そのとき、いつも思うのは「なぜ周りは気付かなかったんだろうか」「防げなかったのだろうか」だ。

 二つのケースを週刊文春(7月18日号)が取り上げている。埼玉県所沢市で中学生が同級生に刺された事件と、岐阜県岐阜市でいじめによって中学生が自殺した事件だ。いずれも見開き2ページの短い記事である。

 まず所沢の事件。最初テレビでニュースを見た時に、刺された生徒が加害生徒の自宅前で遭難していることから、なんとなく背景があるという予感がしていた。つまり被害生徒の方が加害生徒を圧迫していたのではないか、積もり積もったものが爆発して逆襲されたのではないか、ということだ。

 その後の警察の調べで分かってきたことは、それを裏付けるものだった。加害生徒は被害生徒らからのいじめを受けていたようなのだ。そのことは家族や学校、周囲もなんとなく気付いていたようである。「いじり」や「からかい」がエスカレートしていき、「上下関係」つまり支配と被支配の関係ができていって、服従させられていたのだ。

 そしてお決まりのようにいじめの主犯格には「家庭問題」があった。「子供を怒鳴りつける声が尋常でなく」「離婚を繰り返す母親」と同誌は伝えている。その鬱憤(うっぷん)を加害生徒にぶつけていたとしたら、因果関係はもっと奥にまでつながる。

 「いかなる事情があったとしても、殺害を正当化できる理由は、微塵もない」と同誌は記事を結ぶが、この流れで読者の共感はあまり得られそうもないし、言葉が虚しく響きもする。

◆教委の説明二転三転

 岐阜市のケース。県下有数の進学校で起った。自殺した生徒がいじめられていたことは、勇気ある同級生のメモで教師も知っていた。にもかかわらず、命が失われることになってしまった。

 腹立たしいのは教育委員会の説明が二転三転することだ。これは真正面から事件に向き合っていないことを示す。遺族や保護者の強い求めがあってはじめて実態解明に乗り出している。その辺の下りは記事に詳しく書かれているが、見えてくるのはこの学校の隠蔽(いんぺい)体質ないしは進学優先の弊害だ。

 実際の学校の対応はどうだったのだろうか。同誌によると、「この中学は毎年、『いじめ防止基本方針』を策定。本年度版には、いじめ解消の判断は最低三カ月を目安とすることや、いじめに関するアンケート等の資料保存の必要性、保護者との連携の重要性が謳われているが、遵守されていなかった」という。

 「この中学」と言っているが、今どき、ほとんどの小中学校では「いじめ防止基本方針」を立てており、定期的なアンケート調査も行っている。だが事件が後を絶たないのは、制度はあっても名ばかりで、生かされていないということだ。

 同誌は教育評論家の尾木直樹氏に聞く。「情報共有のための仕組みづくりを怠」ったと尾木氏は指摘するが、これは確かにある。職員室で情報が共有されていないのだ。少なくとも学年主任の元に情報が集約されていないのだ。この辺の不備を記事はもっと突いてほしかった。学校現場の仕組みに疎いのか。

◆地域と学校が連携を

 いじめ防止の要諦は「早期発見、早期対処、予防」の3点である。発見のためには教師の感度が高くなければならず、対処は迅速かつ徹底して行わなければならない。一番重要なのは予防で、「いじめをするな」ではなく、「いじめる気が起こらない」雰囲気と環境をつくっていくことだ。それは学校よりも家庭で、家庭よりも社会でそうなっていなければならない。尾木氏はそのくらいのことは言わなかったのか。学校や教育委員会をやり玉に挙げているだけでは問題は解決しないのだ。

 昨今、保護者も含めた地域と学校が連携していく「コミュニティースクール」の取り組みが進められている。地域、社会全体が健全化していくこと。これを思い切って主張する記事がほしい。

(岩崎 哲)