謎深まる元露スパイ襲撃事件

中澤 孝之日本対外文化協会理事 中澤 孝之

軍用毒物使用説に異論も
親子回復も捜査は長期化へ

 3月初めに英国南西部ソールズベリーで起きたロシアの元情報機関員で2重スパイのセルゲイ・スクリパリ氏親子暗殺未遂事件から2カ月近くが過ぎた。しかし、犯人は誰なのか、使われた有毒化学物質(神経剤)の出所はどこなのか、それはどのようにして持ち込まれたのか、親子はどこで危害を受けたのかなどがいまだに特定されていない。

 英捜査当局の発表で確かなのは、重体だった親子とも体調が回復し、娘のユリアさんは4月9日に退院(その後、当局が秘密の場所に隔離したもよう)、入院中のスクリパリ氏も意識が回復して「急速に快方に向かっている」ことである。現場に駆け付けて気分を悪くし病院に運ばれたニック・ベイリー刑事巡査部長も同月22日に退院したという。つまり、ポート・ダウン秘密兵器研究所が「ノビチョク」の一種「A234」と特定した軍用の神経剤による死者は幸いなことに、一人もいなかった。

 2006年11月に同じく英国で起きたリトビネンコ暗殺事件と同様、今回の事件にも疑問点が幾つかある。例えば、ノビチョクのような軍用の毒物の場合は、即効性があって、接触すると数分後あるいは数秒後に死に至るといわれる。スクリパリ氏親子の場合、毒物は液状で、自宅のドアの取っ手に塗られており、発見現場ではなく自宅で接触したとの説が有力だが、彼らはベンチで昏睡状態で発見されるまでに、車で移動し、レストランで食事をし、パブにも立ち寄っていることが分かった。自宅を出て約7時間、市内を移動していたのだ。しかも、そろって治療により回復した。このことから、ノビチョク説は怪しくなってきた。

 それでも英国当局はノビチョク説を曲げていない。早急に外交官追放合戦の幕開けに踏み切ったからだろうか。詳細に触れる余裕がないが、02年から約2年間駐ウズベキスタン英国大使を務めたクレイグ・マレー氏(59)も、ソ連時代のウズベキスタンの神経剤生産工場を米国専門家たちが破壊した現場を視察した経験から、ノビチョク説に疑問を呈している。

 一方、メイ首相やジョンソン外相によるロシア関与説は推測だけで証拠がないとして、事件と無関係を主張し続けているロシアのラブロフ外相は4月14日に、毒物は無力化ガスと呼ばれるBZ(3-キヌクリジニルベンジラート)で、ロシアにはなく米国や英国で製造され、備蓄されていたものとの新しい説を唱えた。これは事件現場から英国専門家が採取した毒物のサンプルを化学兵器禁止機関(OPCW)に委嘱されて調べたスイスの核・生物・化学兵器防衛研究所(シュピーツ研究所)の検査結果に基づいた発言であった。しかし、OPCWの事件報告(12日にサマリー発表)には、どういうわけかシュピーツ研究所の調査について触れられていないという。明確な毒物の判定も避けた。

 ところで、英有力紙「デーリー・テレグラフ」(20日付)は、英国のテロ対策警察と情報機関が有力な犯人(複数)を特定したとのスクープ記事を発信した。それら「利害関係者たち」はロシアに戻ったと信じられているという。英国発着の旅客機の乗客名簿や、ソールズベリー市内の監視カメラ、乗用車ナンバーなどから捜し当てたらしい。犯罪捜査はさらに数カ月かかる見込みだと同紙は伝えた。リトビネンコ事件では、犯行実行者と公聴会報告で特定された容疑者の2人はロシアに帰り、以来、犯行を一貫して否認し続けている。今回の事件でも捜査は難航すると予想される。

 さて、かつて米中央情報局(CIA)に潜入していたチェコスロバキアのスパイ、カレル・ケヘル氏(83)がロシアのニュース専門局RTとのインタビューに応じた(23日発信)。ケヘル夫妻は1984年11月、スイス経由で帰国する寸前にニューヨークで米連邦捜査局(FBI)に逮捕され、86年2月にベルリン・グリーニッケ橋での東西両陣営捕虜交換により釈放された。長年のスパイ経験を持つケヘル氏はスクリパリ事件について次のように語った。

 「心(しん)から信じているのだが、ロシアに関して言えば、スクリパリには全く興味がない。かつて(米国で逮捕された)ロシアの情報員たちとの交換にロシアが同意したことがその証拠だ。だから彼がロシア側からの工作や攻撃などの犠牲者になることは絶対にない。スクリパリ親子は何か反露工作のシナリオの“よい餌”になった」

 「英国の治安当局は明らかに、親子の居所をできるだけ隠し続けている。多分彼らをロシア当局と会わせないだろう。公表したくないことを彼らがしゃべるのを恐れているからだ。スクリパリは裏切り者で、信用ならない、モラルのない男だから、何を口にするか分からない」

 最後に、米ソの諜報(ちょうほう)員の比較について聞かれたケヘル氏の説明を紹介する。

 「双方には大きな違いがあったと言いたい。ソ連の諜報員との接触の経験から言えば、彼らはよりよく教育され、より有能で、外国語をよく話せた。国家保安委員会(KGB)要員には大学卒、それも修士レベルかそれ以上の者が雇われた。一方、CIAは学士レベルの者を雇い、彼らを訓練し、職務を決めた。比較すれば、ソ連の諜報員に分があった」

 (3月20日の本欄では「スクリパル」と表記したが、露語での確認後、「スクリパリ」に変えた)

(なかざわ・たかゆき)