シャルリエブド事件に思う
自由と安全を崩す恐れ
同化が困難なムスリム移民
1月7日パリで12人が殺害されたシャルリエブド事件は、法的基準ばかりか、政治的基準からしても重大である。この犯罪が、西側世界に対するグローバル的イスラム主義聖戦と見做(みな)されている。
フランス大統領は、風刺紙シャルリエブド編集者らに対する攻撃をフランスの革命理想たる自由・平等・博愛への攻撃と見做し、ドイツ連邦議会議長は、「自由かつ開かれた社会、我々の成文及び不文憲法、我々の諸確信及び諸価値に対する攻撃」と理解し、しかも、ここで危険に晒(さら)される「諸価値」として、言論の自由、とりわけ新聞の自由を挙げた。テロへの抵抗のスローガンの下に50カ国を超える国々の首脳が参集し、巨大なデモ行進の先頭に立ってテロに対する悲しみと抵抗を共有することを表明した。
イスラム教への侮辱に対する罰としてのアラーの名における殺人は、崇高な革命の理想とも関わりがない。テロリストは、殺人の禁止(国内法)とともに武力行使の禁止(国際法)の原則をも破っている。テロリズムは、市民の平和(安全)を消し去る。
他方、市民の平和の保障は全ての国家の義務である。なお、市民に対し安全を確保するが、自由は与えない諸国家も存在する。しかし、安全を維持し得ない諸国家は、全体としてその市民に自由を提供できない。身の危険を恐れる者は自由ではあり得ないからだ。自国の市民に安全と自由を保障する諸国は、テロに対する戦いにおいて市民に安全のみを提供する諸国との協働に躊躇(ちゅうちょ)する必要がない。だからと言って、安全と自由を保障する諸国は、自由保障のない同盟諸国に対し、弾圧されている人権の側に立つことが阻止されてもいない。
全ての自由権は、宗教の自由を含めて、最初から平和の状況下においてのみ可能となる。それには法的に身体的暴力が行使されないことが前提とされる。たとえ宗教が最も低俗な方法で侮辱されようとも、暴力行使自体は不法である。従って、侮辱が身体的暴力を伴わない限り、自衛の構成要件は発生しない。法治国家では、物理的強制は国家機関(逮捕及び拘置)にのみ留保されるからだ。
しかしながら、国家の法的行為が、その市民の安全を有効に確保できないほどに制限される場合、つまり市民の自由の行使に際して国家が有効に安全を提供できない場合には、国家の暴力独占が崩れやすくなる。
イスラム世界では、テロリストたちが今般のパリの事件の如く、信仰の名誉のため自らの命を捧げたがゆえに、広く殉教者として賛美される傾向がある。しかし、これはキリスト教殉教者のイメージの倒錯である。キリスト教殉教者は、その信仰を裏切るか守るかの非常事態に陥った場合、信仰を貫くために自らの命を犠牲にすることはあっても、決して他者の命は犠牲にしないし、従って、殺人者でも自殺者でもない。
なお、イスラム過激派と特攻隊の明確な相違は、後者が国際法の枠内で、攻撃対象を軍事目標に限定し、非軍事目標への攻撃を回避したところにある。この点からすれば、第2次世界大戦終結間際のアメリカ軍による広島・長崎への原爆投下、東京への無差別絨毯(じゅうたん)爆撃、民間人への機銃掃射等の行為は、軍事目標への限定を義務付けた戦時法を無視した行為からして、法的にはむしろイスラム過激派の行為との類似性が見られる。
なかんずくイスラム過激派と殉教者の行為の相違は、聖書やコーランのテキストからよりも、創設者に関する信者のイメージ、つまり一方では磔(はりつけ)にされた神の子、他方では、戦闘的預言者から生ずる。そのことは、イスラムの西側世界への同化に反対する論拠とはならないにしても、この宗教の西側社会への同化の困難性の要因となっている。この任務は、欧州へのムスリム系移民が自らの力で遂行しなければならない。世俗国家はこの任務を代行できないからだ。
なお西側多元社会は、現在以上にこの任務の遂行を困難にすべきではない。ともあれ、ムスリム世界では、イマーム(ムスリム礼拝の際の導師)が西側に対しイスラムを侮辱したと結論付ける場合には、容易にイスラム主義過激派ばかりか、大量のムスリム大衆の怒りが燃え上がる傾向を持つ。この現象は、例えば、デンマークの風刺漫画、そして今般のシャルリエブド事件でも見られた。
西側社会は、殺害されたシャルリエブド紙編集者に殉教者の栄誉を与え、彼らを言論・新聞の自由の殉教者として敬意を表する傾向を持つ。しかし、彼らは殉教者ではなく、ある犯罪の犠牲者ではあっても、新聞の自由のための闘争で戦死したのでもない。むしろ彼らは、彼らの自由の表明が殺害者にとって不愉快であるが故に殺害されたのである。
何事も真面目に取らず、如何なる聖なるものも認めない「おどけ社会」は、如何なるふざけも理解せず、おどけ社会を神なき退廃と見做す聖なる生真面目に遭遇する。一方で、宗教を軽視し、侮辱する傾向を持つ西側世俗社会、他方で政教の相互関係が西側社会と異なるイスラム社会。これが、なかんずく悲劇の発生要因となっていないだろうか。
(こばやし・ひろあき)