戦争の英雄
「乱世に賢者は世に背を向ける(賢者辟世)」。孔子の言葉だ。こんな言葉もある。「乱世には英雄が出る(乱世英雄)」。史書ごとに登場する言葉だ。間違った言葉ではない。
兵乱のたびに英雄は例外なく現れたのだから。隋の100万の大軍を退けた乙支文徳、契丹の10万の兵を水葬した姜邯賛、(文禄慶長の役当時の)倭軍(日本軍のこと)にとっては死神ような存在だった李舜臣…。“不滅の英雄”とは彼らに付き従う献辞だ。特に、李舜臣は“聖雄”と呼ばれる。
『乱中日記』癸巳年(1593年)9月15日の日記。「関山の月の下で慟哭すると/鴨緑江の風が心を掻く/臣下たちよ/この期に及んでも東西に分かれて互いに争うのか」「国を安らかにして社稷を守ることに忠と力を尽くし…死生をかけて必ずそうするなり」。2カ月前に晋州城が陥落し、国運が再び危うくなった時の日記だ。党争(両班の派閥抗争)を痛嘆し、命を捧(ささ)げることを誓った。文章は続く。「口では教書を誦んずるが、顔には恥ずかしさが満ちている」。自分のたらなさを責める文だ。
茫々たる大海の波をかき分けて倭船に向かって突進する李舜臣の艦船団。部下たちは将軍の心を知っているので、命を懸けた戦いに出たのではなかったか。李舜臣がなぜ聖雄なのか、日記を見ると理解できる。しかし彼はふさわしい待遇を受けられなかった。朝廷で彼の霊魂を慰めるための祠堂を建てたのは、壬辰倭乱(文禄・慶長の役のこと)から100年余りたってからだった。
“6・25戦争(朝鮮戦争)の英雄”故白善燁将軍。米国の国家安全保障会議(NSC)は哀悼声明を発表した。「白将軍のような英雄のおかげで、韓国は繁栄した民主共和国になった」。死体が大地を埋め尽くした多富洞の戦い。「無名の勇士たちは高地に上り、また上って無数に死んでいった」。将兵たちは先頭に立つ彼に従って命を懸けて戦闘に臨んだ。第1師団を率いて平壌に進軍し、陸軍参謀総長として北朝鮮軍と中国共産党軍を防いだ。胸にしみる彼の生き様は回顧談を集めた本『ジェネラル・ペク』に残っている。
戦争に疲れた彼の霊魂は、ソウル顕忠院に1坪の休息の地も許されなかった。日帝強占期(日本統治期)に満州軍で勤務した経歴のためなのか、北朝鮮共産勢力の侵略を退けた経歴のためなのか。現代史に輝く6・25戦争の英雄はいつごろ復活するだろうか。
(7月14日付)
※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。
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