兄・正男氏暗殺、「白頭血統」継承へ決行
金正恩朝鮮労働党委員長は権力固めの過程で近親者粛清を厭(いと)わなかった。叔父の張成沢氏が処刑(2013年)され、異母兄の金正男氏も暗殺(17年)された。
「朝鮮で最も標高が高い白頭山に天から精気が下りてくると言って指導者偶像化の根拠にしたのが『白頭血統』。ただ、これは長男優先の原則なので、正恩氏としては『白頭血統』を継承するには自分の上に正男氏や正哲氏がいることを広く知られるのは都合が悪い。頻繁に海外に出てメディアにコメントしていた正男氏の場合、特にそうだった」
太永浩氏は正男氏の暗殺決行は時間の問題だったとみる。だが、「正恩氏後継」がまだ確定する前、正男氏にも目はあったようだ。太氏は、正男氏がよく出入りした香港、マカオなどで軍偵察局(現、軍偵察総局)に所属しながら外貨稼ぎをしていた友人から次のような話を聞かされたという。
「正男氏は1カ月に1回、金総書記からまとまったカネをもらっていたが、カジノなどですってしまうことも多く、足りなくなると私にすがりついてきた。いつ後継者になるか分からないので無碍(むげ)に断ることもできず、会社に上納する10%をあげていた。ところが正恩氏への後継が決まった瞬間、正男氏の周囲から支援者がみな一斉に離れていった」
それだけでなく「北朝鮮の国家安全保衛省では正男派と正恩派のリストを把握していたが、後継が決まると正男派の粛清に乗り出した」(太氏)という。
韓国情報筋によると、カネに困った正男氏は弟の正恩氏にファクスを送った。そこには「自分は政治に関心がない」「生活費と子供の教育費を送ってほしい」など善処を促す内容が記されていた。その件で正男氏を励ましたのが張成沢氏だった。張氏のそうした行為が正恩氏の神経を逆なでした可能性は十分ある。
英国駐在時、太氏はポーランドなどで大使を務めた、金総書記の異母弟である金平一氏と親しく付き合った。正男氏暗殺後、「次の標的は平一氏」との臆測も流れた。だが、太氏は「正男氏と平一氏は違う」と言う。
「正日氏も正恩氏も平一氏の活動を制限しない。正日氏は外務省に『平一に不便を感じさせたり、不快な思いを抱かせたりするな』といつも話していた。平一氏は自分が主流でないことを十分わきまえており、噂(うわさ)が立つような派手な遊びもしない。静かにしていれば絶対に手出しはしないということだ」
ただ、そんな平一氏にも監視の目はひと時も緩められないという。「大使館に勤務する保衛要員たちは夜もおちおち眠れない。もし平一氏が脱北したら自分たちの責任が問われ、家族ともども粛清されてしまう」(太氏)。
英国の有名ギタリスト、エリック・クラプトンの音楽に耽溺(たんでき)している兄、正哲氏が訪英した際、「61時間随行した」(著書『太永浩の証言』から)太氏に改めてその印象を尋ねると「権力への関心はなく、音楽以外に関心を示さない人」。だが、兄とて少しでも体制に挑戦的な態度を見せれば監視対象になる。
「白頭血統」の継承に立ちふさがる恐れがあれば近親者でも死ぬまで徹底監視の対象にされる――。これが北朝鮮という国だ。
(ソウル・上田勇実)