金正男氏暗殺劇の背景
動機はコンプレックス
正恩氏に“白頭の血統”の呪縛
かつて北朝鮮を「ならず者国家」と糾弾したのはアメリカの大統領であったが、北朝鮮はこともあろうに2月13日にマレーシアのクアラルンプール国際空港で、金正恩朝鮮労働党委員長の異母兄、金正男を暗殺するという暴挙に出た。「広辞苑」によると、暗殺とは「ひそかに狙って人を殺すこと。政治的に対立している要人を殺すこと」とあるが、空港という公共の場でひそかに遂行された暗殺劇であっただけに衝撃は大きかった。
事件は当初、2人の北朝鮮女性工作員による毒物を使用した「毒針で刺された」「ぬれた布を顔に押し付けられた」「液体を噴射された」などと、毒物を使用した犯行と報じられた。というのも、北朝鮮は毒物を利用した暗殺技術を開発しており、2011年に韓国当局は暗殺未遂事件の容疑者から押収した暗殺道具を公開したが、先端から毒物を体内に注入するペン型の毒針や、懐中電灯に模して毒物を発射する小型銃などがあった。
筆者も某紙の取材に「女性工作員が関与しているとすれば、至近距離でも正男氏を油断させるためであろう」とコメントしたが、後に、2人の女性は北朝鮮女性ではなく、インドネシア国籍とベトナム国籍の女性であることが判明した。2人の女性はマカオ行きの自動チェックカウンター前に並んでいた金正男を前後から襲撃し、オイル状の液体を手のひらで正男の顔に塗り付け逃走した。
2人の犯行は空港内の各所に備え付けてある監視カメラが逐一捉えており、2人の女性は逮捕されたが、問題は正男に塗り付けた液体状の物質の正体である。マレーシア警察は事件から10日経った24日に、「死亡した男性の遺体から、猛毒の神経剤VXが検出された」と発表したことにより、改めて北朝鮮による残忍な暗殺に世界は驚愕(きょうがく)した(北朝鮮は当然のことながら男性の死因は心臓発作であり、VXが使われた根拠はない、と抗議した)。
筆者が今では過去の出来事になった感がある「北朝鮮の工作員によるVXを使用した犯罪」に関心があるのは、最近、朝鮮半島から飛来してきている気球(バルーン)に、水色の液体が入った器が付着しているが、この液体は「北朝鮮の生物・化学兵器」ではないのか、というマスコミなどからの問い合わせがあったことと、長年継続している中朝国境踏査で特に注目している鴨緑江の北朝鮮岸にある青水化学工場(戦前、日本によって建造されたカーバイド工場で、当時は世界的なカーバイド製造技術を誇っていた)で、覚醒剤や生物・化学兵器が製造されているという情報に基づき、調査に行くたびにこの工場について調べているからである。北朝鮮は現在2500~5000㌧程度の化学物資を保有しており、全てを砲弾に転用すれば、ソウル市の4倍の面積を汚染できると言われている。
VXは国連が挙げた大量殺傷兵器に属す毒剤で、化学兵器禁止機構(ОPCW)によってその使用、製造、保有が禁じられている。VXが皮膚に触れたり吸い込んだりすると神経に作用して呼吸ができなくなり、数十分で死に至ると言われており、致死量は数㍉㌘程度で、毒性はサリンよりもはるかに高いとされる。金正男の遺体は3月末にマレーシアから北朝鮮側に引き渡された。これからは北朝鮮側の遺体解剖で遺体からVXは発見されなかった、という新たな解剖結果が出て、事件は迷宮入りになるかもしれない。
金正男暗殺の動機について、マスコミに登場した評論家各氏は当初は一様に「金正男が『三代世襲』を批判したから、消された」という説を唱えていたが、一部からは「金正男が韓国への亡命を試みたから」という説もあるが、決定的な理由は「金正恩の金正男に対する血統コンプレックスがあったから」である。金正恩と金正男は兄弟とはいえ一度も会ったことがないし、金正男は金正日が最も愛した妻成恵琳との間で生んだ長男である。一方の金正恩は北朝鮮社会では“二等市民”の扱いを受ける在日朝鮮人出身の踊り子高英姫の息子である。金正恩は権力の座に上がった後も母について公然と話すことはできず、2年前であったか、母の映画を製作したが幹部連中の反対にあって、上映することはなかったという。
金正恩は執権以後、唯一“白頭の血統”を強調してきたが、これは金正恩の金正男に対する血統のコンプレックスの現れで、長男でもない、二等市民の母親を持つ金正恩が,われこそは“白頭の血筋を受け継ぐ者であり、権力者として正統性を持つ者”として君臨するためには、自らの存在を脅かす金正男は「排除しなければならない存在」であったのである。金正恩は叔父の張成沢や自分の兄(異母兄であるが)までも残忍な方法で殺害した冷酷・非道な人間のように思われているが、金正恩はわれわれが思っているような「血統・血筋・一族」を考えている人間ではない。何よりも“白頭の血筋”なるものは、金王朝神格化のために捏造(ねつぞう)されたものである。金正恩はこの呪縛(じゅばく)から逃れようとしたのが、今回の暗殺劇である。(敬称略)
(みやつか・としお)






