後継決定前夜、故金正日氏と幹部の「合作」

検証・金正恩統治5年(上)

 北朝鮮の最高指導者、金正恩・朝鮮労働党委員長が父、金正日総書記の死去に伴い権力の座を世襲してから今月で5年が過ぎた。弱冠、20代後半で後継者となった正恩氏の手腕は疑問視されたが、大方の予想を覆し体制の動揺は見られず、権力をほぼ掌握したかに見える。なぜ統治は可能だったのか。関係者や専門家の話を通じ正恩氏の5年を振り返る。
(ソウル・上田勇実)

 2008年夏、金正日総書記が脳卒中で倒れた時、一番慌てたのは最高幹部たちだった。

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2011年12月28日、北朝鮮の平壌で、金正日総書記のひつぎを載せた車と並んで行進する金正恩氏(中央手前)ら(朝鮮中央テレビの映像から)(AFP=時事)

 後継者を早く決めないと体制が揺るぎかねない。自分たちも運命共同体だ――。

 当時、3人いた金総書記の息子のうち“有力候補”に挙がったのは正男氏と正恩氏の2人。金総書記の義理の弟で権勢を振るっていた張成沢・党行政部長、体制を陰で牛耳る党組織指導部の副部長十数人、軍幹部らが集まり話し合った。

 金総書記は倒れる前、後継者問題で葛藤していた。晩年の父、金日成主席を後継者として背後で操った自らの経験上、早々に後継者を決めると、一つ間違えば自分の存在感が失われかねない。かと言って決めずに急死したら金氏一族による支配がどうなってしまうか不安だった。

 実は「ポスト金正日」に向けた内部の動きはすでに水面下で始まっていた。金総書記の4番目の妻、高英姫氏が自分が生んだ息子の正哲氏、正恩氏に「帝王学」を学ばせたのだ。10歳以上年上でカリスマも人脈もある異母兄、正男氏という“巨木”に対抗するためだ。

 高氏の勧めで正哲氏、正恩氏は1学年違いで高級将校を養成する金日成軍事総合大学に入学。夫の金総書記には後継者云々(うんぬん)せず、特設クラスに通わせ始めた。もちろん主な目的は軍事専門知識の習得ではなく、いずれ統治基盤となる未来の軍幹部との人脈作りだった。

 ところが、高氏が04年に死去、後継者プロジェクトは一時中断する。高氏に代わって金総書記の“正室”になった金オク氏が高氏の息子への後継に難色を示したためだ。

 正哲、正恩両氏は大学卒業後、父の現地指導にたびたび同行するようになっていたが、金オク氏の発言権が増すようになってからだんだん同行回数が減り、ついには正哲氏は平壌市の北端に位置する龍城区域に、また正恩氏は日本海に接する北東部の元山市にそれぞれ送られた。特に気難しく権力欲もある正恩氏の場合、平壌に戻ることさえ禁じられた事実上の幽閉だった。

 しかし、その後、金総書記は健康悪化で後継者を決めなければならなくなる。倒れてから約10日後に意識は回復したものの、時折、記憶障害や判断力低下などに見舞われた金総書記に、幹部たちは正恩氏への後継を勧めた。理由を尋ねられると、幹部たちはこう説明した。

 「北で『先軍(軍事優先政策)教育』を受け、決断力のある大将同志(正恩氏)が適しています」

 正男氏は資本主義に浸り過ぎており、権力に関心を示そうとしない正哲では頼りない。消去法でも正恩氏が残った。

 09年1月8日、正恩氏の誕生日の日、金総書記は幹部たちを集めた非公式の場で正恩氏後継を告げる。その1週間後、韓国メディアが「正恩氏への後継決定」をスクープし、情報が漏れたことに激怒した金総書記が一時、方針撤回を言いだしたが、結局は予定通り後継作業が進められていった…。

 以上は、北朝鮮内部事情に詳しい消息筋がこのほど本紙に明らかにした後継者決定前夜の緊迫した物語の一部である。

 正恩氏後継はその資質を見抜いた金総書記のトップダウン式命令だけでなく、体制動揺の恐れを感じた幹部たちが強く望んだ筋書とも一致していた。つまり「最高権力層の合作品」(消息筋)だったということになる。

 金総書記は北朝鮮の発表で11年12月17日に死亡した。同月28日、約80年ぶりの大雪が舞う平壌の錦繍山太陽宮殿前広場で行われた金総書記の葬儀では、正恩氏が党や軍の幹部たちと共に霊柩車(れいきゅうしゃ)を囲むようにして先頭を歩く姿が国営テレビで生中継された。

 今にして思えば、金総書記の死を弔うというより、正恩氏後継が金総書記と幹部による承認を経て極めて安定した形で決まったことを内外に誇示する場であったのかもしれない。