元露スパイ暗殺未遂の波紋

中澤 孝之日本対外文化協会理事 中澤 孝之

英露関係一気に冷却化
娘が露から持参した品に毒か

 英南西部ソールズベリー中心部のショッピングセンター前のベンチで4日午後4時ごろ、初老の男性と若い女性が意識不明で倒れているのが発見された。2人は病院に運ばれたが、本稿執筆の3月半ばの時点では、意識は戻り、一命は取り留めたもようだ。捜査当局の調べで、男性は亡命中のロシアの元情報機関員セルゲイ・スクリパル(66)、女性は娘のユリア(33)であることが分かった。英国のメディアは「ロシアの元スパイ、暗殺未遂」と大々的に報道した。

 「ロシアの元スパイの暗殺」として騒がれた2006年11月に発生の「放射性物質ポロニウム210による元ロシア連邦保安庁(FSB)職員アレクサンドル・リトビネンコ殺害事件」が思い出される。筆者は、事件に至るまでのリトビネンコの生活、事件の経緯、2人の容疑者を含む多数の関係者の証言、捜査状況、死因審問、さらに14年7月からの公聴会を詳細にフォローし、公聴会議長サー・ロバート・オーウェン判事の最終報告書が発表された16年1月まで、公聴会事務局のサイトに連日アクセスし、膨大な資料をダウンロードした。犯行が断定されたルゴボイ、コフトゥンの両容疑者はロシアにいながら、一貫して否認し続けたまま、オーウェン報告が「多分、プーチン大統領が(暗殺を)承認した」と推察したところで、幕が引かれた。今回の「スクリパル事件」の結末はどうなるのか関心が持たれる。

 まず、スクリパルとはいかなる人物なのか。モスクワの軍事技術大学を卒業後、航空部隊で勤務し、さらに連邦軍参謀本部情報総局(GRU)に移り、駐スペイン大使館軍事アタッシェとして働いた。そこで1995年に英情報局保安部(MI6)にリクルートされて“二重スパイ”となる。帰国後、GRU本部人事部門で働く。99年、大佐の地位で定年退職。退職後も英スパイのハンドラーと会う際、持っていた大きなバッグから「ルイビトンバッグを持つスパイ」とのニックネームを付けられていた。

 2004年12月、FSBによって逮捕され、裁判で重大な裏切りと国家反逆行為の容疑で裁かれて、禁固13年の判決を受けた。リトビネンコ事件発生の3カ月前の06年8月だった。10年7月、当時のメドベージェフ大統領により他の3人と共に恩赦を受ける。スクリパルら4人は、米国で逮捕・拘留中の10人とカナダで収監された1人の計11人のロシア人情報部員との「スパイ交換」により、ウィーン空港で釈放された。

 スクリパルは英国亡命が認められ、ソールズベリーに居を構えた。英情報筋によれば、彼は在英の初めから、英国や西側の情報機関に機密情報を提供し続けていたという。同氏は最近、命を狙われていると警察に通報していたとの報道がある。英国で生活を共にしていたリュドミラ夫人(当時59)は12年に子宮内膜がんで亡くなり、長兄が16年に死去。17年には息子のアレクサンドル(同43)が急性肝機能障害でサンクトペテルブルク旅行中に死亡した。ユリアは14年にロシアに戻り、ナイキやペプシコで働いていた。

 事件のポイントの第1は、毒物による被害者はスクリパル親子に限らなかったことだ。現場に駆け付けた警官3人が体調不良を訴えた。さらに、スクリパルの家に急行し捜索に当たった警察職員31人のうち刑事巡査部長ニック・ベイリーが、気分を悪くして病院に運ばれ、一時重体に陥ったという(15日付英有力紙デーリー・テレグラフ)。ということは、スクリパル親子は街頭で襲われたのではなく、既に自宅で神経性毒ガスを浴びた可能性が強い。ユリアは前日、モスクワから父親の元を訪れたばかり。土産品か何かロシアから持参した品物に毒物が混入されていたと推測されている。

 第2に、毒物の正体が判明した。秘密兵器研究所ポートン・ダウンの調査で、「ノビチョク」(ロシア語で「新参者」の意味)といわれるロシアで開発された軍用の神経剤だとテリーザ・メイ英首相が12日、下院で明らかにした。首相は「この事件は英国への直接的攻撃か、ロシア政府が大惨事を起こす可能性の高い神経剤を制御できず、第三者の手に渡ってしまったかのどちらかだ」と述べた。メイ首相と言えば、前述のリトビネンコ事件の際の内相であり、事件解明の指揮を執った強面(こわもて)の女傑だ。

 第3に、英露外交官追放合戦の再現だ。リトビネンコ事件では英露4人の外交官相互追放劇が演じられ、英露関係は一気に冷え込んだ。メイ首相は今回も、ロシア政府の関与の可能性を「極めて高い」と強く疑い、14日には報復措置として冷戦終結後最多数のロシア外交官23人の国外追放処分を発表した。今回もロシア外務省は大統領選挙前日の17日に、英外交官23人の追放と在サンクトペテルブルク英総領事館の閉鎖などを発表、「英側の挑発行為とロシアに対する根拠のない非難」への報復措置だと説明した。また、英国の要請で国連安保理事会が公開会合を開き、アレン英国連次席大使が「ロシアの関与を考えざるを得ない」と非難。ネベンジャ露国連大使は、物的証拠を提示するよう要求するとともに、「ロシアは既に化学兵器を廃棄した」と反論した。昨年12月、ジョンソン英外相が5年ぶりにロシアを訪問し、関係改善に一歩踏み出したばかりの英露関係が逆戻りする気配が濃厚だ。(敬称略)

(なかざわ・たかゆき)