独における反イスラム言動

小林 宏晨日本大学名誉教授 小林 宏晨

平和的共存を乱す危険

無制限ではない言論の自由

 人々は、その意見を自由に表明し、議論する場合にのみ、その政治意思を形成することができる。これこそが民主制の基盤である。しかし、他者を中傷し、かつ犯罪を呼び掛ける者は、制限を受けることになる。このことを最近のドイツを用例として検討しよう。

 ドイツでは、全ての民主諸国と同様に、誰もが自らの考えを発言し且つ書くことができるとされている。基本権としての言論の自由はドイツ基本法(憲法)第5条に、「各人は、言語、文書及び図画によって自らの意見を表明し、流布し、且つ一般的に近づくことのできる情報源から妨げられることなく知る権利を有する」と規定されている。つまり国家は、人々が自らの意見を表現する可能性が奪われないために必要な配慮を行わなければならないとされる。

 ドレスデン市でも毎月曜日に街に繰り出し、意見表明をしている団体が存在する。ペギダ(Pegida=Patriotische Europaer gegen die Islamisierung des Abendlandes)、つまり「西洋のイスラム化に反対する愛国的欧州人」のメンバーの多くは、例えば、欧州でイスラム教が増え続け、キリスト教を駆逐していると主張、更に、「難民は、犯罪者あるいはテロリストだ!」、「ドイツの新聞は嘘をばらまく!」、「政治家は無能且つ腐敗している」と主張、従ってデモ用のプラカードには、「政治家を絞首刑に!」、「多文化主義の停止を!」、「難民受け入れの停止を!」と表示する。

 しかし憲法規定からすれば、警察は、この種のデモ、このためにプラカード持ち込み、アジ演説を容易に禁止することは出来ない。警察、ドレスデン市長、ザクセン州及びドイツ市民の大多数が前記のぺギダの行為を間違った行為であると判断しても、これを禁止する理由とはならない。何故なら、右派であれ、あるいは左派であれ、価値のあるなしにかかわらず、多数派とは異なる急進的な見解もドイツ基本法は、保護しているからである。基本法の作成者達は見解の多様性を伴った多元社会の維持を重要視していたのだ。言論の自由は民主制の土台であるとドイツ連邦憲法裁判所が述べている。何故なら、人々は、その意見を自由に表明できるところでのみ、政治意思を形成できるからである。民主制はそれを土台としているのだ。

 しかし、言論(意見表明)の自由には制限がある。意見表明は、他者あるいは社会に対して障害が発生する場合には禁止が許され得る。人は他者を、たとえ気に入らなくても、侮辱してはならない。他者の名誉の保護は、侮辱を忍従しなければならないような例外があるとしても、原則的には意見表明の自由よりも重要である。このような場合、個別ケースで裁判所が決定を行う。

 しかもペギダのデモの場合、個々の人間が侮辱される場合があるが、より重要な点は言論の自由の他の制限で、これが公の平和の保護である。公の平和とは、人間が恐れなしに相互に共存する状態である。国家は、これによって平和的共存が乱される場合に、人に意見の表明を禁ずることが許される。公の平和に対する危険は、例えば、誰かが人間の一集団を、その宗教、その外観あるいはその出生故に、侮辱し、他者にこの集団に対する憎しみをかき立てる場合に存在する。それは民衆扇動であり、これに対してはドイツ刑法で5年の自由刑が存在する。

 ぺギダの指導者は、フェイスブックで避護申請者を「ならず者」、「家畜」と表示した。検察は、ペギダの指導者がこれによって、人間の一集団をその出生によって侮辱しているとの見解を表明している。これについては刑事裁判所が判決しなければならない。ある女性は、フェイスブックに、ある庇護申請者が強姦を試みたと主張し、「ならず者は消えろ!国がこれを理解しない限り、もっと多くの庇護者のための建物が燃えることになる。しかも願わくばドアに鍵を掛けたままで!」と書いている。この女性には最近執行猶予付きの判決がなされた。

 意見を表明し、これによって犯罪行為を呼び掛ける者に対してドイツ基本法は、刑罰からの保護を与えない。あるペギダ賛同者は、最近デモに絞首台を持ち出し、これに「ならず者ジグマー・ガブリエル(連立与党SPD党首・経済産業大臣)とメルケルのために予約!」と書き込んだ。問題は、これによって犯罪行為を呼び掛けたか否かである。肯定される場合、その行為は言論の自由の保護下に置かれない。つまり当事者は罰せられ、しかもデモには絞首台を持ち出すことが禁じられ得る。

 しかし、裁判所が当事者に犯罪行為への呼び掛けと判定する前に、裁判官は不断にこの表現が二重の意味を持つか否か、つまり他の意味に理解され得ないかどうかを検証しなければならない。この様にして当事者のユーモラスな表現が追及の対象とされる危険が外され得る。例えば、ぺギダの指導者は絞首台が全てのカーニバルで見られる「誇張」に過ぎないと主張した。しかし、ぺギダのデモ行進の雰囲気はカーニバルのそれとは極めて異なって対決的である。

 これに加えドイツでは他の民主主義諸国とは異なり、言論の自由の重要な例外が存在する。ドイツでは、ホロコースト(大量殺戮)の否定とナチスの賛美が犯罪行為と位置付けられている。これも自らの歴史的経験からする未来への保障の試みと理解され得るのだろうか。

(こばやし・ひろあき)