テロリストに変貌する若者ら
移民同化政策に限界
欧州の価値観揺さぶるテロ
フランス・パリで13日に起きた同時多発テロは、フランスのみならず、欧州全体に重い難問を突き付けている。テロは折しもシリアからの大量難民受け入れに欧州全体が奮闘している時に起こった。さらにテロは欧州域外からの攻撃ではなく、欧州社会が産み出したテロリストの手によって実行された。テロの脅威は、欧州の人道主義と自由主義の価値観を根底から揺さぶっている。(パリ・安部雅信)
境遇への不満突き組織勧誘
130人の犠牲者を出したフランス・パリの同時多発テロから2週間目となる27日、パリ中心部の戦時の英雄が眠るアンバリッドの広場で、政府主催の追悼式典が行われた。式典の演説の中でオランド大統領は「フランスは、あらゆる手段を尽くして、この罪を犯した狂信者武装集団を壊滅させる」と誓った。
英BBC放送は、「今回のテロは、個人攻撃だけではなく、フランスの国家概念そのものへの攻撃だった」(27日)と報じ、英国など他の欧州連合(EU)加盟国が共有する欧州の価値観への攻撃だったと受け止められている。
13日夜に起きたテロは、今年1月に起きたテロとは性格が異なっていた。1月に起きた風刺週刊紙シャルリエブド本社襲撃事件や、ユダヤ食品スーパー立てこもり事件は、テロの標的が明確だった。
フランスは1月のテロ発生以来、軍兵士1万人を国内の重要警備拠点へ配備し、うち4700人を全国717カ所のユダヤ人学校やシナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)などユダヤ関連施設の警戒に当たらせてきた。さらに米権益施設、メディア関連の建物などを重点的に警備していた。
ところが今回のテロは、カフェやレストラン、劇場、スポーツ施設というソフトターゲットで起き、いつどこでも無差別テロ攻撃があることをEU市民は思い知らされた。過激派組織、「イスラム国」(IS)やアルカイダなどが標的としそうな場所の重点的警備は、一挙にその幅を広げ、物理的には警備が不可能な状態に陥っている。
実は、フランスでは今年1月以降、2月3日には南仏ニースの市街地でユダヤセンターが襲撃され、警備兵3人が負傷している。4月19日には、パリ南方郊外で女性講師(32)を殺害して逮捕されたアルジェリア国籍の学生が同地区数カ所のカトリック教会を襲撃する計画を立てていたことが発覚した。
さらに6月26日には南東部リヨン郊外にある米国系ガス会社エアプロダクツのガス工場で爆発があり、現場から斬首された工場長1人の遺体と2人の負傷者が発見されている。これらの事件を含め、10件以上のテロ関連事件が今年フランスで起きていた。
今回のテロのみならず、フランスで起きたテロの大半を占めるのは、フランスで生まれた北アフリカ・マグレブ諸国からの移民家庭出身者たちだ。現在、シリアやイラクで戦闘に参加している外国人のうち、フランス国籍者が最も多い。彼らの帰国後のテロをフランス内務省は警戒してきた。
アルカイダやISは、数年前からフランスに聖戦主義の普及とテロリスト養成のためのリクルーターを送り込んできた。彼らはありとあらゆる方法で勧誘し、ソーシャル・ネットワーク、刑務所、モスクなどで、フランス社会に不満を持つ移民系の若者を次々に“聖戦”の兵士に仕立て上げてきた。
欧州最大のイスラム社会を抱えるフランスだが、彼らの境遇は政府の同化政策と相まって厳しい境遇にある。学校では差別を受け、両親の教育意識が低いため十分な教育を受けられず、階層性の強いフランス社会では、最低の階級に属する現実がある。
フランスで生まれ育ったにもかかわらず、フランス人として扱われず、居場所がなく、アイデンティティーそのものが不明確なままという若者は多い。多くのテロリストになる若者たちは、学校をドロップアウトし、モスクには通わず、町でドラッグを売り、盗みなどを繰り返し、逮捕歴のある場合も少なくない。
イスラム聖戦主義のメッセージは、そんな若者に強烈な存在価値と人生の目的を与える。大した知識のない彼らは、ISなどが勧誘に利用するキリスト教が送り込んだ十字軍によるイスラム勢力への迫害という構図や、中東での征服と支配の歴史の不合理と、自らの惨めな人生を重ね合わせ、命知らずのテロリストに変貌していく。
フランスをはじめ、EUは独裁や民族主義を抑制し、多様性への寛容さを持つ人道主義と、何者にも縛られない自由の保障を重視している。しかし、信教の自由は、フランスの世俗主義のように宗教そのものを排除する風潮にもつながっている。イスラム女性のスカーフやチャドル着用禁止は、イスラム教徒からすれば信教の自由と矛盾する。
欧州は、今回のテロを野蛮な狂信者による文明への挑戦と位置付け、宗教対立ではないことを強調する。そのためイスラム教と過激派テロリストを切り離して論じようとしている。しかし、イスラム系移民の多くは、人間扱いされていない現実から、欧州の寛容さに偽善を感じ取っている場合も少なくない。