タイ仏教僧団と政権が対立
3年空席の大僧正の選出めぐり
タイは敬虔(けいけん)な仏教国だ。人々の心の中心には仏教が大きな比重を占めている。その仏教国タイでクーデターで政権を握ったプラユット暫定政権と高位の僧侶で構成されるタイ・サンガ(仏教僧団)最高評議会が対立の溝を深めている。(池永達夫)
軍政が仏僧締め出す法改正
タクシン派つぶしの一環か
政権と仏教界の対立の焦点は、大僧正後任問題にある。大僧正は30万人の僧侶を擁するサンガの頂点に立つ最高指導者だが、第19代大僧正が2013年に100歳で死去した後、3年間、後継が決まらないままとなっている。
サンガ最高評議会は1年前、大僧正代行を務めるソムデート僧(90)を次期大僧正に選出した。従来のサンガ法にのっとれば、これを受け、首相が国王に承認を求め、国王が任命することで大僧正の人事は決定されるが、プラユット暫定首相は国王に対する大僧正任命要請を拒否。事実上、この人事を拒んだ経緯がある。
さらに先月29日、タイ軍事政権がバックに控えた非民選の暫定国会「立法議会」は大僧正選任を国王に一任する法改正を賛成182票、反対0票で可決承認した。今回の法改正で、サンガ最高評議会は候補者選出の過程から締め出された。サンガ主流派は法改正に反発、プラユット暫定政権との対立を深めている。
なお、プラユット暫定政権がサンガ法改正にまで踏み込んだのは、仏教界の内部対立があるからだという。
第19代大僧正は1999年、タンマカーイ寺の教祖、プラタマチャヨー僧が信者から寄付された2・4平方キロの土地や現金を自分名義にしていたことなどを問題視し、同僧を強制還俗させるべきだと記した手紙をサンガ最高評議会に送ったものの、大僧正はその後、体調を崩し、サンガ最高評議会は2006年、プラタマチャヨー僧が寄付された土地、現金の名義をタンマカーイ寺に変更したとして、この問題を不問に付している。
15年には立法議会、16年にはタイ法務省特捜局(DSI)が、サンガ最高評議会に対し、大僧正の意思を尊重し、プラタマチャヨー僧を強制還俗させるよう要求したものの、サンガ最高評議会はいずれも却下した経緯がある。
しかし、プラユット暫定首相がここまでして大僧正代行の大僧正就任を拒む本音は、表立って語られる仏教界内部の対立とは違うところにあるようだ。
可能性が高いとされているのが、ソムデート大僧正代行やサンガ最高評議会と新興仏教団体タンマカーイ寺との関係だ。
1970年代からバンコクの中間層、富裕層の間で急速に広がり、バンコク郊外に巨大寺院を持つタンマカーイ寺は、軍政の宿敵であるタクシン元首相と近いとされる。プラユット暫定首相が警戒するのは、タクシン元首相がタンマカーイ寺を通じサンガ最高評議会に影響力を持つことだというのだ。
2014年5月にクーデターでタクシン派政権を倒し、全権を掌握した軍は当初、国を二分する格好で混乱を招いたタクシン派と反タクシン派の両派の和解を目指すとしていたが、その後の軍政下で鮮明になったのは、タクシン派の政治基盤弱体化を図るという一貫した姿勢だった。暫定政権はタクシン派の官僚、軍・警察幹部のほとんどを左遷し、地方のタクシン派団体を解散に追い込むなど、タクシン派つぶしを推進したのだ。
さらに今回、強権統治を徹底するプラユット暫定政権は宗教界にまで手を伸ばし、タクシン派の影響力をそぎ落とす格好となった。
なお今回のサンガを管理する法制度の改革は、サリット首相時代(1959~63)の改革に似ている。
そもそもサンガ法を作ったのは、タイの近代化に尽力したラーマ5世のチュラーロンコーン王だった。チャクリー改革によって中央集権を確立したラーマ5世は、国の拡大に伴いタイ全土の僧侶を管理する必要が出てきたため、サンガ法によって僧の集団を法人化し全ての僧に所属する寺院へ僧籍を入れさせた。
さらに改正されたサンガ法では、大僧正の下に立法、司法、行政を置く民主主義的なものだったが、効率は悪かった。それをサリット首相時代に、大僧正の下に立法機関(長老会議)を置き、その下に行政機関を置く上下一本の関係で構成された経緯がある。長老会議は、大僧正と高位の僧によって構成された。また終身制であった大僧正の地位を国王によって剥奪できるようにもした。ただ国王とは名ばかりで、内閣が国王の行為を管理できたため、事実上はサンガ全体を政府の管理下に置くことになったのだ。