中国は5年で内部崩壊する

孔子と老子

紘道館館長 松本道弘氏に聞く

 中国崩壊が叫ばれて久しいが、紘道館館長の松本道弘氏もその論に与(くみ)する。孔子は縦社会の組織を作る上で大きな役割を果たしたが、やがてこうした組織は硬直化と機能不全をもたらす。その孔子と対極にある無為自然を説く老子の思想こそは、崩壊の淵に立つ中国を救う手立てとなると言う。(聞き手=池永達夫)

孔子が招いた縦社会の宿命/易姓革命を繰り返す中国
学ぶべき老荘思想/無為自然の自然体尊ぶ

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 ――中国講演では「孔子よりも老子を勉強しろ」と学生たちにはっぱをかけたが、なぜ今、老子なのか。

 中国の歴史はDOとBEのそれである。行うのDOに対し、BEは自然体だ。この対立の構造が今まで続いている。孔子の方は行動だから形がある。順序や立場が固定できるから、縦社会の組織を構築するのに都合がいい。

 それに対し老子の老荘思想は、無為自然の自然体を尊ぶ。これは形を作らない。宣教と言う行動を要しない。これでは孔子と老子が合うはずがない。

 インドの哲学者が孔子と老子が会った時のことを書いている。弟子から「すごい先生が一人います」と紹介を受けた孔子は、会いに行く。すると小さな小屋に老子が待っていて、入ったものの、どこに座っていいか分からない。老子はじっと座ったまま、どうぞお座りくださいとか、何も言わない。

 孔子の方は、少し年上だ。「どこに座ればいいのかね」と聞くと、老子は「それはあんたが決めること。順序も礼もありません。ご自由に」と言う。中国語で「随意」という。僕は老子が好きだ。

 その意味で縦社会の中国は孔子社会だ。これは宿命的に崩れざるをえない。いつごろ内部崩壊するのかというと、私は5年と見ている。TIME誌は、あと10年だとみている。日本の右翼メディアは、今にも崩壊するとみているが、私は、その中をとって5年と見ている。

 ――だが中国はAIIB(アジアインフラ投資銀行)など、新金融秩序にも乗り出している。

 中国は今、碁のゲームをしている。AIIBというのは、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に対抗するものだ。中国とすればAIIBをぐっと広げてTPPを抑え込む戦略だ。AIIBは、IMF(国際通貨基金)とか世界銀行みたいに融資条件は厳しくない。微(ほほ)笑み外交で、いつの間にか、米国も蚊帳の外。これが碁のゲームだ。

 軍事パレードも碁のゲームであり、面子ビジネスだ。君たち入るかと聞いて、頭を縦に振ればみんな入れる。ただ来た人間はロシアのプーチン大統領とか韓国の朴槿恵大統領、それに中央アジアの国々の首脳くらいだ。結局、欧州は誰も来なかった。

 これに対し日本は将棋のゲームをしている。将棋というのは敵の駒を自分の陣営に入れて勝負をする。敵を味方に変える。これが将棋の醍醐味だ。

 それに比べるとプーチンはチェスのゲームをしている。チェスというのはトップダウンで王様とクイーンなど強力な戦略家の集合力で勝負をかけるゲームだ。この両者で世界を制覇していく。

 プーチンはなぜ行ったのか。あれは面子ではない。プーチンは長期的に考えて、中国とはいつかぶつかると分かっている。ぶつかる相手と戦略的に結びつくのはチェスの論理だ。日本はぶつかるようなリーダーを失ってしまった。だから私は武士道の復活を口をすっぱくして言っている。

 ――軍事パレードは、「抗日」がスローガンに掲げられた。

 天安門で9月3日、行われた抗日・反ファシスト戦争勝利70周年記念式典軍事パレードは、米露を意識したものだ。横断幕の名前こそ抗日だが実は、日本をそれほど意識したものではない。

 中国でいう「李と桃」の関係だ。李のスモモというのは、小さくて桃に比べ味も一段下がる。桃が最高でおいしい。だからスモモを与えて桃をとる。エビで鯛を釣るみたいなものだ。

 要は共通の敵を作って国家をまとめようとする大国の知恵だ。

 ――天安門の楼上のひな壇に並んだ長老と習近平主席との関係をどう見るか?

 今度の軍事パレード天安門の楼上で、習近平国家主席の左横に立ったのが譜代の江沢民、そして外様の胡錦濤だった。中国は左大臣が強い。見ている人から見れば右。誰がその右に座るかが重要となる。日本のマスコミは間違って、長老たちは反腐敗キャンペーン派の間でまとまったという。これは間違えた見解だ。

 中国の面子は体裁に近い。外見を重んじるミエだ。

 どれだけ浅草で爆買いしたかが中国人の面子だが、そんなみっともないことはするなというのが日本の文化だ。日本の面子というのは銀で、見せない事を重んじるが、中国は金をこれ見よがしに見せることだ。ここに大きな違いがある。だから面子にこだわってはいけないのというのが老子だ。

 ただ、乾いた人間というのは、湿った老子を受け付けない。老子の道(タオ)は、川の如し。孔子は水より石。秩序と言う固定を好む。

 これは変わらざるをえない。だから易姓革命を繰り返すのが中国だ。易姓革命では、現代こそが正義だから過去は壊してもいいとなる。だが日本では、湿った老子と乾いた孔子の両面性を持っている。だからどっちも分かる文化だ。

 どっちも好きなのが日本人で、どっちか一方が好きというのではない。中国は父系の社会で、日本は琉球文化を含め母系の社会だ。

 ――武士道の復活を説いているということだが?

 私が言うのは母性武士道だ。おなかを痛めて生んだ母親というのは、どんな子供でも守る。だが男というのは守らない。俺の言うことを聞くか聞かないか、仕えるか仕えないかだけだ。母はどんな出来の悪い子でも守る。守らない母は母ではない。

 中国に勝つには、母性武士道しかない。これは武士道が誇る惻隠の情だ。ヨコから見るエンパシー(共感)は、タテから見る父のシンパシィー(同情)ではない。

 相手の目線でそのハラの中に入って行くのがエンパシーだ。共感と共振、そして共生のココロだともいえる。これが騎士道にはなかった。

 騎士道というのは男社会の規範だ。船上で、殺す前に敵の顔を見ると自分の息子と同じ年頃だ。それで殺せない。自分は侍として殺されて当たり前だから、「殺せ」という青年を殺してもいいものか、と悩む。そう悩むのが武士道で、悩まないのが騎士道だ。

 一神教の世界では、神様の命令で戦っているのだから、殺さないと天を裏切ったことになる。旧約聖書の時代から、神を裏切ることはできない。アブラハムも神から長男を殺せと言われると殺そうとした。日本はちょっと待てとなる。トップの言うことを聞かないのが日本だ。

 だから母性武士道というのは、新渡戸稲造の「武士道」とも李登輝の「武士道」とも違うものだ。新渡戸は夫人がクエーカー教徒だった。しかも、日本文化に関心がなく、英語しかしゃべらない。それで新渡戸は、自分の妻は、日本をキリスト教に変えようとしていることに気付いたのかもしれない。だからアンチテーゼとして「武士道」を書いた。李登輝の「武士道」も中国を意識した武士道で木に竹を継いだような違和感がある。

 しかし武士道というのは本来、自湧(じゆう)のエトス(精神風土)から生まれたものだ。

 僕には生きている人間の師匠がいない。敢(あ)えて言えば鈴虫が師匠だ。自然の声を聴きながら、日本の将来はどうあるべきかを模索している。

 東京・本郷にある和室の紘道館でインタビューした。「師匠は鈴虫」というくらいだから、本当に上座には虫かごに入った鈴虫が鎮座している。この鈴虫が面白い。インタビューが佳境に入ると大きな声で鳴きだす。毎日もらっているキューリへの恩返しをしているわけではない。弟子の言葉に師匠が「よし!」とでも言っているかのようだ。大阪府生まれ。関西学院大学卒業後、日商岩井勤務。通訳者として、西山千に師事し、駐日アメリカ合衆国大使館同時通訳者、NHK教育テレビの上級英語講座の講師、名古屋外国語大学教授、ホノルル大学教授などを勤めた。著書は「同時通訳」(角川学芸出版)など140冊を超える。