タイで続く反体制デモ
タイで大学生ら若者主導の反体制デモが続いている。今回のデモで顕著なのは、約30年前の反体制運動と同じ軍の政治介入が続くことに反発する構図が浮き彫りになっていることだ。違うのは調停役の王室の不在だ。
(池永達夫)
軍の政治権力化に反発
批判受ける王室、調停力失う
1992年のスチンダ政権退陣を求めたデモは、前年のクーデターを主導したスチンダ陸軍司令官が「自分は首相になることはない」と言明しながら翌年、首相に就任したことで反政府運動が発生、燎原(りょうげん)の火のごとく広がっていった。最大時、50万人規模の市民が王宮前広場に集結して抗議デモを展開、出動した軍はライフルの水平撃ちで多くの犠牲者を出した。
この時はプミポン前国王が調停に乗り出して反政府運動のリーダー、チャムロン氏とスチンダ首相を王宮に呼び、「このままではタイの国そのものが滅びる。瓦礫(がれき)の山の上で勝利の旗を振って何になる。軍人は兵舎に帰れ。市民は家に帰れ」と諭し、一件落着となった経緯がある。
今回の反体制デモも、政治に介入した軍の居座りに業を煮やした国民の反発がある。
タイでは軍のクーデターそのものが、否定されるべきものとは認識されていない。1991年のクーデターは、自分でお手盛りができるビュッフェ内閣と言われたチャートチャイ政権の汚職体質に軍が伝家の宝刀を抜き実力行使に出た。6年前のクーデターも、タクシン派政権支持の「赤シャツ」と反政府運動の「黄シャツ」で国が二分されそうになり軍が調停に入る形で起こった。どちらも当初、軍の政治介入に対し国民的反発はなかった。それどころか市内に繰り出した兵士に、市民は花を手渡しするほどだった。
ただ厄介なのは、握った権力を軍がなかなか手放さず、総選挙を実施して民意による政権樹立までの選挙管理臨時政権に徹しきれないことだ。
今回もクーデターを主導したプラユット氏が首相に就任した。合法的とはいえ、軍人関連枠で占められる上院を開設しての就任だった。首相選出は従来の選挙で選出される下院だけでなく、上院も加わることで可能となった。ただ、ここまでは国民の反政府感情は煮えたぎる熱さには達していなかった。
反政府感情が沸点近くに達したのは、下院議員を選出する昨年の総選挙(定数500)で80議席を獲得して第3党に躍り出た新党・新未来党を強引に取り潰(つぶ)したことだ。反軍政をスローガンにした新未来党を支持したのは若者たちだった。
今回の反体制運動も、そうした正義感の強い学生など若者が主役に躍り出た。デモの手法も、香港デモに倣いSNSを多用し情報を共有、デモ開催場所など直前に知らせ、取り締まりに動く警察を牽制(けんせい)している。
なお、今回のタイ騒動で1992年と決定的に違うのが最終調停役としての王室の不在だ。国民から敬愛され強力な求心力を持っていたプミポン前国王は4年前、逝去した。後を継いだのが長男のワチラロンコン皇太子だったが、絶対的な求心力という点では時間が必要な状況だ。
今回の反体制デモの要求項目には政権の退陣だけでなく、「王室改革」も含まれている。タイから離れてドイツで過ごすワチラロンコン国王や膨張する王室予算の見直しを求めている。
不敬罪があるタイでは異例の要求だが、ワチラロンコン国王は国民に寄り添っていないとダイレクトに批判する。王室は現在、混沌化しつつある政治情勢の正常化を牽引(けんいん)する調停者どころか、在り方そのものに批判の声が上がっている。