「義」と「愛」を体現した巡査 森川 清治郎

【連載】台湾で祀られる日本人先覚者(1)

住民のため税の免除請い自決 夢枕でコレラへの対処法指南

 日本統治時代に台湾のために尽くした少なからぬ日本人がいた。彼らはゆかりの地で「神」として祀(まつ)られ敬愛されている。知られざる先人たちの足跡を拓殖大学海外事情研究所教授の丹羽文生氏が訪ねる。


寺子屋開き教育普及

「義」と「愛」を体現した巡査 森川 清治郎

嘉義県東石郷

 台湾中南部の嘉義県東石郷副瀬村にある「富安宮」という廟(びょう)に、制帽を被(かぶ)り、サーベルを引っ提げ、勇ましい顎鬚(あごひげ)を蓄えた神像が祀られている。日本が台湾を統治して間もなくの頃、この集落の派出所に勤務していた日本人巡査、「義愛公」こと森川清治郎である。

 台湾高速鉄道(新幹線)の嘉義駅からタクシーに乗って30分くらいだろうか。台湾海峡に面しており潮の臭いが鼻を突く。ここは牡蠣(かき)の養殖が盛んで、近くの家々の前には牡蠣の殻が山のように積まれてある。富安宮は、2014年に新しく建て替えられた。金色や赤色の原色に彩られた絢爛(けんらん)豪華な造りである。

「義」と「愛」を体現した巡査 森川 清治郎

巡査姿の森川清治郎の神像(筆者撮影)

 第2次世界大戦が終わるまで50年間、台湾は「日本」だった。日清戦争の結果、日清講和条約(下関条約)によって清朝から日本に割譲されたのが台湾である。しかし、初期の統治は一筋縄にはいかなかった。

 伝染病が猛威を振るい、猖獗(しょうけつ)を極める土匪(どひ)が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)し、土地も人心も荒れ果てていた。住民の多くが小規模な半農半漁で生計を立てていた副瀬村の生活環境も極めて劣悪で、識字率も低く、盗賊が頻繁に出没して民心を不安にさせていた。

 そんな中、副瀬村に赴任してきたのが森川である。1861年、神奈川県の農家に生まれたとされる森川は、長じて刑務所の看守となり、その後、日本の台湾領有に伴い、97年に巡査を命ぜられ台湾へ。幾つかの転勤を経て着任したのが副瀬村だった。副瀬村の惨状を見た森川は、この状況を一刻も早く改善しなければと、巡査としての任務の傍ら、教育普及、衛生観念の啓発、農業技術の改善に取り組む。

 読み書きのできない住民を集めて派出所隣の富安宮を借りて寺子屋を開き、自らのポケットマネーで教員を雇い、日本から取り寄せた教材を使って、授業料無料で「あいうえお」を指導した。時々、テストを実施し、優秀な成績を収めた生徒には紙、筆、墨を賞品として手渡したらしい。

環境衛生向上に尽力

 排水溝を整備して下水を流し、食品、飲料の加熱殺菌を奨励し環境衛生の向上にも努めた。時には自ら鍬(くわ)を持って泥だらけになりながら住民に農業技術を伝授し、病人が出れば薬を調達、貧しい家々には金品を恵んで苦境から救い、副瀬村の安寧のために全身全霊を傾けた。

 森川は「大人」と呼ばれ、多くの住民から慕われた。まさに謹厳実直を絵に描いたような生粋の明治人だった。だが、そんな性格故か、森川は自ら命を絶つこととなる。1902年春、台湾総督府が漁業税賦課を実施した。いくら貧しいとはいえ副瀬村も例外ではない。納税催促は、巡査の重要な任務でもあった。しかし、その日暮らしの毎日を送る副瀬村の住民に支払いは無理と判断した森川は、副瀬村の窮状を上役に訴え、無理を承知で減免を請うた。

 森川の思いは届かなかった。それどころか、住民の納税拒否を扇動しているとの叱責を受け戒告処分に。副瀬村に戻った森川は、数日後、早朝の巡回を終えると、所轄内の慶福宮境内で、村田銃を喉(のど)に当て、足で引き金を引いた。銃声を聞いた住民たちは大急ぎで慶福宮へと向かった。そこには変わり果てた森川の姿があった。享年42歳であった。

 集まった住民たちは茫然(ぼうぜん)自失の状態で立ち竦(すく)み、やがて、悲鳴に近い嗚咽(おえつ)を上げながら嘆き悲しんだ。森川が着ていた衣服のポケットから1枚の名刺が出てきた。そこには「疑われては弁解の術(すべ)もない、覚悟する」と書かれてあった。

木像を村の守護神に

「義」と「愛」を体現した巡査 森川 清治郎

森川巡査の神像を祀(まつ)る富安宮(筆者撮影)

 それから20年余りが過ぎた23年、副瀬村周辺の村々でコレラが流行し、住民たちを再び恐怖に陥れた。ある夜のことである。住民の夢枕に森川が現れた。

 森川は、懇切丁寧に衛生管理の方法について指南し、副瀬村の平穏無事を祈ると告げて消え去ったという。早速、森川からの伝言通りに対処すると、瞬く間にコレラは鎮まっていった。この世を去っても未(いま)だ副瀬村に思いを寄せる森川の愛情に人々は感激し、森川が椅子に座って正面を見詰める姿を一尺八寸の木像に仕立て、副瀬村の守護神として富安宮に祀ることにした。

 筆者が初めて富安宮を訪れたのは、2011年秋のことだった。ちょうど新廟の建設中で、神像は仮廟に安置されていた。

 中に入ると近所の住民たちが丸テーブルを囲みながら談笑していた。カメラを持って森川の神像に近寄ると、日本人であることが分かったのか、一人の老人が筆者に向かって流暢(りゅうちょう)な日本語で「正義、勇気、仁愛、至誠、それに側隠の心。義愛公はサムライ」と叫んだ。今の日本では死語と化した武士道の用語ばかり。どう答えていいものか、些(いささ)か戸惑ったのを覚えている。

 義愛公は、しばしば霊験を現し、不治の病まで治せるという。商売繁盛や恋愛成就の祈願にやって来る人もいる。今では何体もの副像が作られ、副瀬村以外の集落にも分霊されるほど人気らしい。

 拓殖大学海外事情研究所教授 丹羽文生


「義」と「愛」を体現した巡査 森川 清治郎

丹羽文生(にわ・ふみお)

 昭和54年石川県生まれ。拓殖大学海外事情研究所付属台湾研究センター長。岐阜女子大学特別客員教授など務める。専攻は政治学、日本外交史。著書に『「日中問題」という「国内問題」』(一藝社)など。