人種融和に尽力した「巨人」マンデラ氏死去
不屈の闘士として南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離)政策の撤廃を主導した同国の元大統領ネルソン・マンデラ氏が死去した。追悼式には日本から皇太子殿下と福田康夫元首相が参列した。約100の国・機関の首脳級が出席してマンデラ氏に別れを告げ、オバマ米大統領は弔辞でマンデラ氏を「歴史上の巨人だった」と称(たた)えた。
白人支配者への許し
われわれがマンデラ氏に畏敬の念を抱くのは、単に人種差別と闘っただけでなく、差別撤廃後の人種融和に尽力したためである。
南アのアパルトヘイトとは、少数派の白人が多数派の黒人を差別したことだ。差別は参政権はもちろんのこと、教育、労働条件から居住地、乗り物にまで及んだ。その結果、黒人の大多数は読み書きや計算がほとんどできず、失業率は4~5割ともいわれる。また、治安が世界最悪レベルに達するなど深刻な後遺症を残した。
非白人の反対闘争は1960年代から激化した。闘争の指導者だったマンデラ氏は国家反逆罪で27年間投獄されたが、南ア・ケープタウン沖約12㌔に浮かぶロベン島の刑務所に、そのうちの18年間収容された。
しかしマンデラ氏が偉大だったのは、白人による厳しい弾圧にもかかわらず、人種融和しか解決策はないとの結論に達したことだ。彼は言った。「私は白人の独占支配とも、黒人の独占支配とも闘ってきた。全ての人が調和と平等な機会の下に暮らすことが私の理念だ。この理念のため、必要とあらば一命をささげる覚悟がある」
肉親を虐殺され、怒りに燃えて復讐(ふくしゅう)を誓う黒人たちと、報復におびえ武装して身構える白人たちが対立する中にあって「抑圧された側も、抑圧してきた側も、ともに偏見と不寛容から解放されなければ、本当の自由は達成されない」と説いたのがマンデラ氏だった。
マンデラ氏は94年、南アの黒人初の大統領に就任したが、前任者のデクラーク元大統領は「マンデラ氏がいてくれてよかった。権力の平和的移行の受け皿として信頼できる人物は、彼以外いなかった」と語っている。白人支配者への復讐ではなく、許しと融和を打ち出したマンデラ氏の懐の深さに感銘していたからこその言葉だろう。
「肌の色や育ち、信仰の違いを理由に他人を憎むように生まれつく人などいない。人は憎むことを学ぶのだ。もし憎むことを学べるなら、愛することも学べる。愛は憎しみより自然に人の心に届くはずだ」とのマンデラ氏の言葉は今も生きている。マンデラ氏が93年、ノーベル平和賞を受賞したのも当然のことだった。
だが、残念なのは南アの現状だ。マンデラ氏がかつて率いた南アの与党、アフリカ民族会議(ANC)の腐敗体質が指摘されている。政権に近い一部の黒人が特権を利用し裕福になり、貧富の格差が拡大している。
南アは原点に立ち返れ
反アパルトヘイト闘争と人種融和に一生をささげたマンデラ氏の夢は崩れようとしている。原点に立ち返った国造りが望まれる。
(12月13日付社説)