和平協定は事実上崩壊、南スーダンで戦闘が再燃
スーダンから2011年7月に独立した南スーダン。アラブ系イスラム教徒主導のスーダン政府から独立を勝ち取り、武装闘争から解放された南スーダンだが、独立後も騒乱が絶えない。7月には首都ジュバで戦闘が再燃、和平合意は事実上崩壊しており、内戦再突入が懸念されている。(本田隆文)
UNMISS参加の自衛隊
「駆け付け警護」を検討
ジュバで7月上旬、キール大統領派とマシャール副大統領派との間で戦闘が発生し数百人が死亡した。
さらに今月に入り戦闘が再燃、南スーダン軍報道官が14日に発表したところによると、政府軍とマシャール副大統領派の戦闘や民間人への残虐行為で、1週間に少なくとも60人が死亡した。
マシャール派武装勢力は8日から13日にかけて政府軍兵士11人と民間人28人を殺害し、マシャール派も21人が死亡したという。軍がマシャール派は「民間人を焼殺している」と非難する一方で、マシャール派は「残虐行為を働いているのは数カ月も給料をもらえない軍兵士たちだ」と主張するなど、激しく対立している。
また軍報道官が17日に明らかにしたところによると、北東部のマラカル付近で政府軍と反政府勢力の激しい戦闘があり、反政府勢力の要員少なくとも56人と軍兵士4人が死亡した。
国連南スーダン派遣団(UNMISS)も12日、「この数週間、各地で暴力や武力衝突の報告が増加している」との声明を出すなど、警告していた。
南スーダンでは、13年にキール大統領とマシャール副大統領(当時)との対立が激化、7月にマシャール副大統領ら全閣僚が解任された。12月以降、政府軍とマシャール派の反政府勢力との戦闘が激化し、内戦に突入していた。
キール派とマシャール派は、15年8月に和平協定に署名した。両派はこれまでにもたびたび停戦で合意してきたが、戦闘は収まらず、和平協定後も依然、戦闘は続いていた。
今年7月の戦闘再燃を受け、和平協定は事実上破綻した。4月に両派が参加して発足していた統一暫定政権も、キール大統領がマシャール副大統領を解任したことで、有名無実化、内戦再突入の危機が叫ばれていた。
またマシャール氏の後任にマシャール派のタバン・デン・ガイ前鉱物相が任命されたことも事態を複雑にしている。
デン・ガイ氏は、政府とマシャール派との間の昨年の和平合意交渉で、マシャール派の首席交渉担当者だった。キール大統領は、同派の一部がデン・ガイ氏をマシャール氏に代わる派閥の指導者とすると決定したことを受けて、デン・ガイ氏を副大統領に任命したと主張しているが、潜伏中だったマシャール氏はこれを認めていない。
スーダンは1956年に独立するが、自治をめぐる対立から内戦に突入、72年まで続いた。また、83年に、北部のアラブ系イスラム教徒主体の政府がイスラム法を導入したことで、キリスト教徒が多い南部が反発、再び内戦に突入した。民族的にも、北部ではアラブ人が多数派であるのに対し、南部は黒人が多数派を占める。
南部では、キリスト教、伝統宗教が支配的で、宗教・民族をめぐる対立が、スーダン内戦の大きな要因となっていた。
南部では、有力黒人部族ディンカなどがスーダン人民解放軍(SPLA)を結成、北部の中央政府との間でゲリラ闘争を展開してきた。2005年に包括和平合意が結ばれ、内戦は一応の終結を見るが、この間の死者は200万人に達した。
11年1月に実施された独立の是非を問う南部での住民投票では、98・83%が独立に賛成、7月9日に正式に独立した。
だが、スーダンとの間の火種は抱えたままで、翌12年には国境での軍事衝突が激化した。南部には油田が多く、原油の輸出も南北の対立の一因となっている。油田地帯のアビエイは係争地となっており、いまだに帰属は未定だ。
情勢不安が続く南スーダンには、市民保護のためUNMISSが派遣されている。UNMISSには日本の自衛隊も参加、避難民支援のためジュバの国連施設で活動している。日本政府は、今月末で期限が切れる派遣の延長を決めている。検討されていた「駆け付け警護」任務付与については、月内の判断を見送った。来月以降に改めて判断する意向だ。






