県史編集委員の狙い、意図的に「集団自決」演出

歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実
上原 正稔 (35)

 新沖縄県史の最終章において、沖縄戦編集部長の吉浜忍沖縄国際大学元教授は、1944年3月22日から45年9月7日まで連日の記録を「沖縄戦詳細年表」として発表している。筆者はアメリカ側の記録を基に「沖縄戦G2戦時記録」を出版していたからこの年表に関心を覚えた。どのような意図や背景でまとめられたか一目瞭然だからだ。「集団自決」については次のように記録している。

 <3月26日米77歩兵師団阿嘉、座間味、慶留間島に上陸。座間味、慶留間で「集団自決」「強制集団死」起こる

 3月27日米77歩兵師団、渡嘉敷に上陸

 3月28日渡嘉敷で「集団自決」「強制集団死」起こる

 4月2日読谷村のチビチリガマ「集団自決」「強制集団死」起こる

 4月3日読谷村のクーニー山壕で「集団自決」「強制集団死」起こる

 4月4日具志川城で「集団自決」「強制集団死」起こる

 4月22日伊江島アハシャガマで「集団自決」「強制集団死」起こる>

 あきれるばかりだ。新沖縄県史には「集団自決」について数多くの記述がある。それは全て「集団自決」「強制集団死」と記述されている。例えば、宮城晴美氏は新沖縄県史編集委員会の副会長であり、「慶良間諸島の沖縄戦」の執筆を担当し、「日本軍の特攻基地にされ軍民の共生共死を強いられた慶良間諸島住民の行き着いたところが、日本軍駐留ゆえの『集団自決』『強制集団死』であり、虐殺の犠牲であった」と括(くく)っている。

 しかしながら、連載第9回で指摘したように、1990年6月に宮城氏が沖縄タイムスで発表した「母の遺言―きり取られた『自決命令』」の中で、母初枝さんの証言として、「50年代に沖縄の援護法の適用を受け、村の長老の圧力を受け、初枝さんは梅澤裕戦隊長が決して玉砕を命じていないことを知りながら、玉砕命令を出した、と国の調査団に嘘の陳述をした」と記している。

 しかし、このメガトン級の告白文は人々の記憶から完全に消えてしまい、この告白文を基にした『母の遺したもの』を2000年、高文研社から出版すると、座間味村長らは「晴美は2度と村に入れるな」と怒り狂った。05年、梅澤さんらが「梅澤さんと赤松さんは集団自決命令を出していない」として岩波書店に対して民事訴訟を起こすと、宮城氏は岩波のバックアップを受けて被告側の証人として法廷に立つことになったのだ。

 そして08年、タイトルは「新」がついただけの『母の遺したもの』を同じ出版社から出したのだが、中身は全くひっくり返って、「梅澤裕戦隊長はやはり自決命令を出した」という内容だった。実に噴飯ものの話だが、彼女は「集団自決」「強制集団死」を恥も外聞もなく叫ぶ「文化人」たちに囲まれて安穏と生きている。