流血の闘争の果てに、批判への寛容学んだキリスト教
2016 世界はどう動く-識者に聞く(13)
聖公会中東・北アフリカ総主教
ムニール・ハンナ・アニス師(下)
キリスト教の歴史では、宗教改革があり、聖書が批判される時代を経過して、信仰は穏健化したように思える。イスラム教にも必要なのではないか。
キリスト教徒も数世紀前はとても、自己批判や批判されることには不寛容だったということだ。ローマ法王は、教会の教えを批判する何人かのキリスト学者を裁いた。聖公会においても、改革の歴史の中で3人の主教が十字架上で焼かれた。3人とはトーマス・クランマー師、ヒュー・ラティマー師、ニコラス・リドリー師だ。彼らはローマ法王を批判したのだ。英国のメアリー女王は、“血まみれのメアリー”と呼ばれ、ローマ教会を批判した多くの人々を処刑した。
また、我々は、改革時に、30年戦争もした。お互いに見解が異なっており、お互いに戦ったのだ。それを経て、キリスト教徒はより寛容になってきたのだ。自己批判や、批判されることを受け入れるようになった。聖典(聖書)の一部分への批判や聖書の教えに対する批判も受け入れるようになってきた。聖書に対する疑問や疑いを受け入れるようになり、批判もOK、非信仰者をも認めるようになってきた。もしある人が信じることを願わないなら、それもOKだということだ。我々はまた、我々は神の立場に立つことはできないという事実も受け入れた。神は神自身を守ることができるのだから、我々が裁判官である必要はないのだ。神こそ最高の裁判官なのだ。神が人々を裁き、人々を非難するのだ。だから我々は神ではなく、神と戦うのでもない。
イスラムにおいて、自己批判や、批判されることがまだ発達していないのだ。イスラムはこの分野で発展する必要がある。ハディースを批判する人が今、現れ始めた。
再び言うが、キリスト教の歴史において、宗教改革の時代に、複数の人々が彼らの見解故に牢に入れられた。例えば、「天路歴程」を書いたジョン・バンヤンが監獄に入れられた。彼は牧師ではなく、ただ宗教を批判しただけなのだ。
キリスト教界からイスラム教界に対し、働き掛けるべきことは何か。
私のメッセージは、イスラムの人々はイスラム教徒間の対話を持つべきだということだ。キリスト教界内での対話も不十分だが、私は、イスラム教徒とイスラム教徒間の対話が必要だと思う。聖公会とカトリックが対話しているように、スンニ派とシーア派間の対話も必要だ。過激派信徒と穏健派信徒間の対話も必要だ。
我々は500年前に戦ったのだ。しかし今、お互い話し合いを持っている。我々はエキュメニカル運動をしている。世界教会会議をしている。だからイスラム教徒も21世紀はお互いの対話が必要なのだ。それが私の願いであり、アドバイスだ。
もう一つは、アズハルは、いかにイスラムを守るかだけを考えているが、イスラムを守る最大の方法は、間違ったイデオロギーに対し見解を示すことである。それが最善の方法だ。アズハルは、西側に対し、イスラムの良いイメージを守りたいと努力し、イスラムは良い宗教であることを示す証拠を並べているが、しかし彼ら(ISなどの過激派)と対話し、根底から彼らのイデオロギーを正すのが一番だ。
私は、アズハル総長のアフマド・タイエブ・グランドイマムに、ISが出している、30ほどの不思議なファトワ(イスラム法令)に対し、ちゃんと正しい見解を出し、それを、英語と仏語に翻訳し、発表すべきだ、と提言した。その翻訳は自分が支援してもいい、と言った。グランドイマムは、それは偉大なアイデアだ、と語ったが、その後何事も起こらなかった。
(聞き手=カイロ・鈴木眞吉)