「安倍一強」の“閉塞感”打破主張?元首相にスポット当てた新潮、文春

◆角栄氏の人心掌握術

 週刊新潮(12月17日号)が「再び振り返る毀誉褒貶(きよほうへん)の政治家の魅力的実像」として田中角栄元首相を取り上げている。一方、週刊文春(12月17日号)では小泉純一郎元首相が安倍政府に苦言を呈している。いまどきの政治家に“魅力”が乏しくてそうなのか、過去の輝ける政治家にスポットを当てたり、またその話を聞くことで週刊誌は何を伝えようとしたのか。

 今年は田中角栄氏が他界してから22年、「二十三回忌」を機に「角栄の傍にいた人々の追憶は、幾星霜を経てなお色褪せることがない」(週刊新潮)として所縁の人々の話を載せた。

 角栄氏とのエピソードを語るのは政治家、後援会関係者、番記者、法廷で対峙(たいじ)した検事たちだ。いずれも、「今太閤」と呼ばれ、飛ぶ鳥落とす勢いで総理大臣に上り詰めた角栄氏から、ロッキード事件で被告の身となりながらも復権を目指していた姿に至るまで、政治家角栄の“実像”が語られている。

 豪放磊落(らいらく)でありながら緻密な頭脳の持ち主であったことを指して、角栄氏はよく「コンピュータ付ブルドーザー」と言われたが、この評価で欠けているのは、人の真似(まね)のできない細やかな心遣いと人情味あふれる人柄だろう。

 だから、同誌で語る人の誰もが人柄に言及している。直接それに触れたら「ただの金権政治家だと思っていた角さんのイメージが一気に変わりました」(元読売新聞の中野士朗氏)というように、ころっと角栄贔屓(ひいき)になってしまうらしい。それほど人心掌握術に長(た)けていた。

 これは天性のものなのだろう。逆に今の政治家に欠けている点だ。記事を読めば読むほど、「今の政治家でこういう人はいないなあ」と思うし、会社や組織でも角栄氏のような指導者はなかなか見当たらない。

 時代は変わり、人も変わるのが世の常である。いくら角栄氏を追想しても、胸に去来するのは「昭和は遠くなりにけり」である。今の時代は今のスタイルでやっていくしかない。なのに角栄氏を取り上げた同誌「ワイド特集」の狙いは何だったのか。安倍政府や今の政治家たちに田中角栄を想(おも)い返せというのか。

◆権力の使い方”指南”

 既に過去の人でありながら、今を生きているのが小泉純一郎元首相だろう。同氏の言動は今もメディアから注目され、最近では文藝春秋(1月号)でノンフィクションライターの常井健一氏が「小泉純一郎独白録」を載せて話題となっている。その常井氏が週刊文春でインタビューのエキスをまとめている。

 常井氏は、「この四年で四人の総理経験者をインタビューしたが、最高権力の座から去った者には概して特有の暗さがつきまとう。どうしても言外に未練が漂い、過去の人に見えるものだ。しかし、小泉は(略)底抜けに明るかった」と述べている。

 小泉氏と言えば、原発ゼロや安保法制で現政府とは違った意見を開陳したことでも話題となっているが、同じ党、同じ派閥、同じく首相という関係性から言っても、小泉氏の発言は安倍首相の耳には“痛く”聞こえるはずだ。

 ただ、その“痛さ”には単なる「隠居の足の引っ張り」ではなく、「権力とはどう使うべきか」という“指南”が含まれている。「安倍一強」「官高党低」と言われる中で、小泉氏は数の力で押し切るのではなく、野党を説得して味方につけ、一呼吸置いて事を進めていくことが大事だと述べる。これは安倍支持者が内心思っていることを言い当てているようにも聞こえ、それを常井氏はよく聞き出した。

◆「人気」という共通点

 田中角栄、小泉純一郎、ともに共通点は「人気があった」ことだ。今この時期、週刊誌が彼らを取り上げたのは「安倍一強」の“閉塞感”を打ち破って、「自民党は総理に何を言おうが自由だったんだよ。言いたい放題言った。ただ、決まれば従う」(小泉氏)という自民党の良き伝統を想い返せ、との主張なのかもしれない。

 「今は決まる前から総理のご意向に黙っちゃうから、おかしいよね」という小泉氏の言葉を安倍首相、否、政府自民党の面々はどう聞くか。

(岩崎 哲)