政府のスキャンダル追及に終始し「国民的利益」を顧みぬ野党とマスコミ

◆先人2人の至言想起

 平成31年から引き継いだ令和元年。この1年の政治を振り返って、心に浮かんでくるのは先人の至言である。

 一人はスペインの哲学者ホセ・オルテガ(1883~1955年)。「国民はときとして知的・精神的に劣る、過度な平等と民主主義を要求する大衆、すなわち『凡俗な平均人』」になりがちだと言う。

 「すべての過去の時代よりも豊かであるという奇妙なうぬぼれによって、いやそれどころか、過去全体を無視し、古典的、規範的な時代を認めず、自分が、すべての過去の時代よりもすぐれ、過去の還元されない、新しい生であるとみなしている」(『大衆の反逆』1930年)。

 昨今のLGBT(性的少数者)なるものや同性婚、夫婦別姓、はたまた女系天皇などをめぐる論議を聞いていると、90年前のオルテガの指摘が蘇(よみがえ)る。

 もう一人はドイツの社会学者マックス・ウェーバー(1864~1920年)。政治は「情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫く作業」とし、「いかなる現実にも挫けないと言い切れる人間のみが政治への天職を持つ」と断じた(『職業としての政治』1917年)。

 民主政治は民意と指導性(リーダーシップ)の整合性が課題となるが、政治を「天職」とする政治家が日本にいるだろうか。私事で閣僚辞任を余儀なくされたり、「桜国会」に浮かれたりする日本の政治家には無理な話か。

◆「事前審査制」の功罪

 読売の特別編集委員、橋本五郎氏は「日本は議院内閣制国家か」と問うている(7日付「五郎ワールド」)。日本の国会の在り方を考える書として佐々木毅編『比較議院内閣制論』(岩波書店)を紹介し、その中にある成田憲彦元駿河台大学長らの論文が示唆に富んでいるという。

 それによれば、世界の議会の中でも日本の国会が特殊なのは「与党の事前審査制」。政府の政策は与党によって事前に審査・調整され、内閣は与党の党議決定を経て閣議決定する。与党は議案が国会に提出されると「後は通すだけ」。一方、蚊帳の外の野党の存在理由は政府のスキャンダル追及ばかりとなる。

 それで「討論」(国会議員間の直接的な意見交換)は日本の本会議審査でわずか0・3%にすぎない。英仏とも下院で30%に上っているのに比べその差は歴然としている―というのである。確かに日本の議院内閣制にはそんな側面があろう。

 だが、その差は「事前審査」だけに由来するのか。政党政治の視点で見ると、違う姿が浮かぶ。英国の政治思想家エドマンド・バークは、政党とは理念・政策を一致させ「国民的利益」を図る結社と定義し、議会は「徒党」でなく政党によって運営されなければ、議会制が破綻すると指摘している(『現代の不満の原因』1770年)。

 こうした政党論から言えば、与党による政策の事前審査や調整は「国民的利益」を図ろうとする機能の一つだ。それがなければ、議員は支持団体や地域の「利益代表」に矮小(わいしょう)化され、徒党に陥る。

◆問われる「政党政治」

 問題は野党とマスコミだ。政府のスキャンダル追及ばかりで、「国民的利益」を顧みない徒党の体だ。産経の「阿比留瑠比の極言御免」(5日付)が「何がしたいの 国民民主党」で指摘するように野党議員は政治家として何がしたいのか、どんな展望があるのか「何が何だか分からない」。だから支持率は上がらない。

 朝日社説は「臨時国会閉幕 政権の専横を忘れまい」(10日付)「桜を見る会 許されぬ政権の居直り」(19日付)と野党と同様、スキャンダル追及に終始する。英国は政権交代を前提とするので「影の内閣」や「マニフェスト」(政権公約)が機能しているが、日本にはそれがない。

 議院内閣制もさることながら、政党政治こそ問われるべきではないのか。来年も反安倍だけの野党やマスコミでは先人の至言は生かされまい。

(増 記代司)