自衛隊配備までの道のり、島外から活動家招き反対

国防最前線・南西諸島はいま

第1部 与那国島・陸自駐屯地(3)

自民党政調会審議役 田村重信緊急リポート

 与那国町議会が2008年1月に自衛隊誘致の方針を決めたことを受け、翌年6月には外間守吉町長と崎原孫吉町議会議長(当時)が浜田靖一防衛相(当時)を訪ね、自衛隊の誘致を要請した。

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すっかり色あせた自衛隊誘致反対の横断幕

 09年8月の町長選で自衛隊推進派の外間町長が再選を果たした頃から、自衛隊配備計画が具体化。13年8月の町長選の最大の争点は当然ながら自衛隊配備になった。外間氏が自衛隊誘致反対派の候補を破って3選したが、思いのほか僅差だった。

 15年2月には「陸上自衛隊沿岸監視部隊配備の是非を問う住民投票」が行われた。有権者は1276人。投票率85%、1094の票が投じられ、賛成632票で、反対445票を上回った。数字上は圧勝だが、それまでの道のりは平坦(へいたん)ではなかった。

 与那国防衛協会の金城信浩会長ら地元の有力者らを前に、「自衛隊が配備されて良くなったこと、悪くなったことを教えてほしい」と聞くと、「悪いことは何一つない」と言った。ネガティブなことを言う人は一人もいなかった。

 よくよく話を聞いてみると、元から与那国島に住む人々の大半は自衛隊を推進あるいは容認しており、反対派には島外から移り住んだ人が多い。その彼らが声高に叫んでいるだけだという。これは辺野古移設と同じで地元では歓迎している。

 「メディアは『島が二分している』と言うが事実ではない」

 町議会議長で防衛協会副会長の糸数健一氏はこう言い切った。3月の編成完結式では反対派が駐屯地前に集まっていたが、それ以来は目立った動きはない。自衛隊配備の住民投票が行われた頃まで、たくさんいた反対派は一体どこに行ってしまったのだろうか。

 今年4月10日に起きた不幸な事故が、反対運動を衰退させる大きなきっかけとなったという。

 自衛隊配備計画に反対する主な団体に「与那国島の明るい未来を願うイソバの会」というものがある。「イソバ」とは16世紀に与那国島を支配した女性指導者の名前だ。

 その会の共同代表で大阪出身の男性が4月10日、水難事故で死亡した。自衛官や海上保安庁職員が必死で捜索作業をし、心肺停止状態の男性を発見した。自衛隊の救急車両で与那国町の診療所に運び、蘇生させようとしたが、命を落とした。

 自衛官が葬儀に招かれることはなかったが、「捜索活動には心から感謝している」という遺族の言葉があったという。金城会長は、この事故がきっかけで反対している人たちがずいぶんおとなしくなったと実感している。

 反対運動を大きくさせてしまった原因に住民投票もある。案の定、反対派は島外から活動家を招き入れ、3年がかりで「反対署名」を集め、住民投票を請求した。そのまま、島に住み着いている人もいる。

 糸数町議は12年、世界日報の取材に対し、「憲法は間接民主主義を基本に据えており、安全保障という国策を一地域の住民投票で決めるのは間違っている。すでに町長選、町議会で決着がついており、住民投票は島を混乱させるだけで容認できない」と話している。 反対派の理由も根拠のないものばかりだった。

 「自衛隊基地ができたら米軍もやって来る」「レーダーによる電磁波被害」

 島の集落の目立つ所には、今でも自衛隊誘致反対の横断幕が掲げられている。住民投票が行われた当時からのもので、すっかり色あせている。「牛が妊娠しなくなる」などという根拠のない噂(うわさ)を流す人もいた。「反対派はとにかく、あら探しをして自衛隊を叩(たた)きたいのだが、見つからないからトーンダウンしている。あんなデマを信じている島民はいない」と金城会長は失笑した。