今、「病」とどう向き合うか
メンタルヘルスカウンセラー 根本 和雄
健康の意味を見詰め直す
人生を前向きに生きる適応力
わが国は、急速に超高齢化が進展する昨今、人々は「病」とどう対峙(たいじ)するかは極めて重要な問題ではなかろうか。それは、同時に「健康」とはどのような状況を意味するのかを見詰め直す機会でもあると思う。
固(もと)より、「健康」という言葉を用いたのは福沢諭吉が明治2(1869)年に『西洋事情外編』でを「健康」と訳して以来のことであるが、それ以前の江戸時代には「養生」という言葉が用いられていたのである。
例えば、貝原益軒の『養生訓』(正徳3・1713年)には“養生の術は、体を動かし気を巡らすがよい”と述べ、これが「原(・)気」で“万病は一気の留滞から生ずる”(後藤艮山(ごんざん))とされた「一気留滞説」で後に一般的に「元気」と使われるようになったという。
問われる主観的健康度
さて、世界保健機関(WHO)は、健康を「単に疾患がない状態ではなく、身体的・心理的・社会的に完全に良い状態」と定義している(1946年)。その後、「霊性」を加えるべきだとの意見があったが見送られている(98年ジュネーブ会議)。
それから70年以上たった今日、果たしてこの健康の定義が妥当であるのか、再考を要するのであるのではないかと思う。わが国の加速する高齢化は、平成29年の推計で、65歳以上の高齢者人口は、3514万人と前年比57万人の増加になっている(総務省・統計調)。今の医療の対象は、治らない病気・進行性のがん・生活習慣病という慢性疾患・加齢に伴う多様な機能低下・認知症などで、そこで大事なことは、それらの疾患とうまく付き合い、苦痛を緩和し、少しでも機能を回復することが大切ではなかろうか。
このような視点から、健康は「状態」なのか、それとも「能力」なのか問い直してみることが必要ではないかと思う。近年、健康をポジティブに捉えるポジティブヘルスが注目されつつある。
そこに深い洞察を加えたのが、オランダの医師マフトルド・ヒューバーらによる新しい健康の概念である。ヒューバーらの提言によれば、健康を「社会的・身体的・感情的問題に直面したときに適応し、自ら管理する能力」として捉え、すなわち、それらに一つ一つ対処し乗り越えていく「立ち直り力」「復元力(レジリエンス)」としての「能力」として捉えている(「BMJ」英国医学雑誌・2011年)。
すなわち、その人に疾患があっても、医療や介護に支えられ症状を和らげながら、落ち込むことなく自分の人生を前向き(ポジティブ)に生きていく「適応力」こそ「健康」であるという。そこには、これまでの「客観的健康観」から「主観的健康観」へと変化し、客観的指標(検査データ)のみならず、患者の主観的な健康度(その人らしい生き方への意欲)が問われているのではなかろうか。
その背景には、イスラエルの医療社会学者アーロン・アントノフスキーの「健康生成論」(サルートジェネシス)があるのではないかと思われる。(『健康の謎を解く』01年)つまり、近頃、実にストレスフルな世相の中で、人々が健康に過ごすには、どのように対処することが望ましいのかを明らかにしようとしているのである。
すなわち、人生に直面するさまざまな困難な問題を乗り越えるために、生活に祈りや瞑想、さらに感謝の心を取り入れることによって、心の安定をもたらし、自らの手で健康を生成しようとする「積極的な生き方」こそ大事なのである。それは同時に、自分の生きがいへと自己を成長させ、その人らしい「健康」へのモチベーションを高めることにもなると思うのである。これこそが、ストレス社会を乗り越える原動力としての「精神的回復力」ではなかろうか。
身体ではなく心の問題
今、改めて「健康」とは何かと問われたとき、“その人らしい人生の目的を達成するために、その人に残された相応(ふさわ)しい能力を生かすこと”ではないかと思うのである。そして、次の言葉を想起したいと思う。
“健康は身体のコンディションの問題ではなく、心の問題である”と。(エディ夫人・アメリカ「クリスチャン・サイエンス」創立者・『科学と健康』)
(ねもと・かずお)