今日の文明と宗教を考える
哲学者 小林 道憲
欲望氾濫する現代文明
自然を地盤に宗教の復興を
未曾有の大災害と犠牲者を生みだした東日本大震災に見舞われて、早や2年10カ月にもなる。その爪痕は、今なお修復はされていない。しかし、この大自然の与えた試練は、ただ一つ、われわれに宗教の原点についての重要なことを教えてくれていたように思われる。父を奪い、母を奪い、子を奪っていった海に向かって人々が祈りを奉(ささ)げている姿にこそ、現代人が忘れていた宗教心の原点が甦(よみがえ)ってきていたのではないか。多くの人命を奪い、一呑みにしていった大自然の力への畏れにこそ、宗教心の出発点があるのではないか。
宗教は、大自然の恵みへの感謝ばかりでなく、大自然の偉大な力への畏怖の念から発生する。特に、豊かな大地は、そこで樹木や草花や動物たちが死と再生を繰り返し永遠の生命を持続する場であるが、それは、また、生きとし生けるものの死の場でもある。山川草木すべてのものに霊魂を見、そこから多くの神々を生みだしてきた多神教は、そのような大自然を背景にして育ってきたと言える。
日本文明の基盤にある神道はもちろんのことであるが、例えば、インドネシアの文明も、また豊かな自然との交感に裏付けられた精霊信仰にその地盤を置いている。インドネシアでは、この精霊信仰の地盤のもとに、インド由来のヒンズー教が受け入れられ、ある時期には、仏教も受け入れられていったのである。なるほど、今日のインドネシアでは、一神教のイスラムを奉じている人々がほとんどであるが、しかし、その背景には、インドから受け入れたヒンズー教的多神教の地盤があり、さらにその低層流には、生きとし生けるものに霊魂を感じる多神教の精神風土がある。自然の豊かな東南アジアでは、一神教もその風土に合わせて、相当に融通無碍(むげ)化し、変容されているのである。
このような観点から言えば、ヨーロッパの精神構造も同じような構造をもっている。例えば、キリスト教の巡礼者の厚い信仰を集めたヨーロッパ各地の聖地は、多くの場合、威容を誇る切り立つ岩場や霊験あらたかな洞窟などにあることが多い。一神教であるキリスト教にとっても、大自然は、聖なるものの顕現してくる場所であった。さらに、その背景にはキリスト教渡来以前の地母神信仰があった。ヨーロッパのキリスト教信仰の低層流には、それ以前のゲルマンやケルトの多神教的風土が脈々と流れている。ヨーロッパのキリスト教信仰の背景に、多神教が一神教化されている面も見逃すことはできない。そして、その多神教の源泉には自然崇拝があったことは確かである。
一般に、宗教は、自然との対話から成立し、しかも、文明は、この宗教を大きな原動力として成立する。今まで人類史上に登場してきた多くの文明の中で、宗教に基礎を置かない文明はなかった。
ところが、一つだけ例外がある。それは現代文明である。19世紀以来の産業主義を基盤として成り立ったここ200年余りの現代文明は、宗教にも支えられず、自然にも支えられない奇妙な文明である。それどころか、現代文明は、宗教をないがしろにし、自然を無限に略奪してきた。現代文明は、宗教を忘れ、自然を征服しようとした文明である。
この現代文明は、思想的には、近世ヨーロッパにおいて自我中心思想が確立され、それが人間中心主義を生み出し、かくて、神が否定され、自然が人間の支配下に置かれたことから成立したものであると言えるであろう。欲望が無限に氾濫する現代文明は、そのような思想的基盤をもっている。もともと、宗教は自然との交感から発生してくるが、この宗教を基盤にして成立した文明は都市文明の性格をもち、自然から離反する傾向にあった。現代文明は、この自然から離反した文明の極であろう。資本主義も社会主義もこの点では同じような性格をもっている。それらは、いずれも無神論的性格をもち、神の存在を無視してきた。神を無視すれば道徳も無視され、残るのは欲望だけになる。
なるほど、資本主義も爛熟(らんじゅく)し、社会主義も崩壊して、何を信じて生きていけばよいのか分からなくなってきている現在では、逆に宗教が復興してきているように見える。しかし、一見宗教の隆盛のように見える今日の状況も、その表面の覆いを取ってみれば、寒々とした様相が見えてくる。宗教自身が現代の拝金主義に呑み込まれている面も見逃せないし、宗教を背景にした民族紛争も絶えない。
確かに、心の支柱を失った今日の人々は、何とはなしの不安の中に生きている。宗教は、これらの不安を背景にして、今後も益々盛んになっていくであろう。しかし、今日の諸宗教も、自然を地盤にしなかったなら、いびつなものになりかねない。祈りに満ちた大地の復活、宇宙や自然との共感に基づく原初的な宗教観念の甦りが求められる。自然と宗教と文明について、深く熟考しなければならない。
(こばやし・みちのり)