明治憲法起草助言者モッセ
獨協大学教授 佐藤 唯行
ユダヤ系学者の国作り
日本で地方改革などを提言
憲法制定は明治日本の威信をかけた一大事業であった。それ故、維新の元勲、伊藤博文自身が勅命を奉じて憲法起草準備のため9カ月間にも及ぶ欧州への調査旅行に赴いたのだ。
1883年のことである。伊藤はドイツ憲法を手本とし、それを日本の国情に合うよう脚色するつもりであった。封建的遺制を残した後発の列強でありながら普仏戦争の大勝により、急速に国威を発揚しつつあるドイツこそが日本のモデルにふさわしいと考えたからだ。
伊藤は欧州で多くの法学者から憲法学の講義・助言を受けたが、最も長時間聴講したのがアルベルト・モッセ(1846~1925)の講義であった。当時、ベルリン市裁判所の判事だったモッセは日本公使館の顧問を務めたのが縁で白羽の矢が立てられたのだ。44日間にも及んだモッセの講義はドイツ語が苦手な伊藤のために、通訳が日本語に訳し、それを書記が邦文で記録する形式が採られた。
その講義録「莫設(モッセ)氏講義筆記」は伊藤が明治憲法起草の大任を果たす上で、常に参照した重要資料となったのである。独法学界の大御所、ベルリン大学教授グナイストからも助言を受けたが、ドイツ貴族でもある彼の口からは「ゲルマン民族優越主義」に染まった発言が聞かれ、伊藤を当惑させている。「憲法は民族精神の発露であり、民族の歴史に立脚している。立憲政治は優れたゲルマン民族には適したものだがラテン民族には不向きだ」といった発言だ。書記を務めた伊東巳代治は「それでは我々黄色人種などは到底立憲政治をなしえないではないか」と憤慨している。
調査団帰朝後、1886年、モッセは伊藤の下問に答えるため来日した。内閣及び内務省顧問という肩書きだ。モッセのようなユダヤ人法律家にとり、今回の仕事はドイツ本国で許されぬ国作りに参画するという「見果てぬ夢」を実現できる得難いチャンスであった。それ故、妻リーナと幼い娘マルタを伴い、当初の契約を1年延長し4年間も日本に滞在したのだ。
同じ頃招かれたドイツ人法学者としてはヘルマン・ロェスラーの名が知られている。議会に対する行政府の優位、天皇の最終裁決権を大幅に認めようとするロェスラーに対し、それらを飽くまで、法律の制約下に置こうとしたのがモッセである。より立憲主義的なモッセの考え方は後の「天皇機関説」の源流と言えるだろう。明治憲法の条文は結局のところ両者の妥協・折衷の上に作成されたのである。
モッセがより主導的役割を果たしたのは市制・町村制の起草・審議においてである。近代的な地方自治の理念を伝えたことが彼の業績と言ってよい。町村が自治能力を獲得するためには幕藩時代から続く小規模な自然村では荷が重い。そう考えたモッセが唱えたのが大規模な町村合併だ。明治政府はこの提言を速やかに実行した。準備作業としてモッセは各地への視察旅行を繰り返し、県令、郡長、戸長と意見交換を行い、地方の実情把握に努めている。誠実な仕事ぶり故、モッセの改革提言は信頼を得たのである。我が国における「地方自治制度の恩人」と評されるゆえんである。
ドイツにおいてユダヤ教徒が裁判官に任じられるようになるのは一般には1871年、ドイツ帝国の成立以後のことである。しかし、帝政期(1871~1918)において、彼らが任じられたポストはほぼ例外なく、地方裁判所判事といった下級の裁判官職に限定されていた。そうした中、モッセが日本から帰国後、1890年、ケーニヒスベルク高等裁判所の判事に任じられたのはユダヤ教徒としては初めての快挙であった。彼がユダヤ人でありながらドイツの公職である程度出世できたのはプロイセン王国の御用商人を務めた先祖が「特権ユダヤ人」の身分を保持していたこと、彼自身も普仏戦争に志願し、軍歴を有していたことが大きい。それでも壁は厚かった。
更なる昇進を期待したが阻まれ、結局、1906年以後、彼は公職から退いてしまう。
失意の彼にとり、大臣たちと親交を結び、勲三等旭日章を授与され、帰国に際しては明治天皇に拝謁する栄に浴した日本での4年間は生涯で最も栄光に満ちた日々であったはずだ。
日本政府もモッセの恩を忘れなかった。ヘブライ大学名誉教授ベン・アミー・シロニーの近著「日本の強さの秘密」(日新報道・青木偉作・上野正訳)によれば、第2次大戦中、ナチス・ドイツはモッセの娘マルタを捕らえ、アウシュビッツの絶滅収容所へ送ろうとした。
この情報をベルリンの日本大使館が察知すると日本政府は彼女の父が日本で果たした業績に報いるべく、彼女の延命を求めドイツ政府に働きかけた。これが効を奏し、マルタには「特別待遇の収容者」の地位が与えられ、別の収容所へ転送され、生きながらえることができたそうだ。
知られざる日猶友好秘史の一頁といえよう。
(さとう・ただゆき)











