歴史教科書に通州事件掲載を
日本人殲滅図った中国軍
戦時国際法違反の猟奇的蛮行
1937(昭和12)年7月29日、冀東自治政府の首都であった中国・通州で、自治政府所属の保安隊数千人が反乱を起こし、自治政府と通州駐留の日本軍約160人を襲った。と同時に、通州に居留する日本の民間人の過半数を虐殺した。この通州事件の研究は長らくタブーとされてきたが、この数年、急速に研究が進展し、いろいろなことが分かってきた。何よりも、虐殺や死体凌辱(りょうじょく)といった残酷行為の具体像がかなり明らかにされてきた。
例えば、妊婦とその夫が虐殺された場面がある。保安隊と国民政府軍の兵士たちは、一人の妊婦をつかまえ、凌辱しようとする。「俺の家内と子供に何をするのだ、やめろ」と叫びながら、飛び込んでいった夫は、木刀を持ち7、8人の中国兵と戦ったが、健闘むなしく殺されていく。兵士たちは、夫の頭皮をはいだり、腸を引きずり出したりの残虐行為を働く。この後、国民政府軍の兵士は、妊婦のお腹も切り裂き、赤ん坊をつかみ出して投げたという。妻も赤ん坊も虐殺されてしまったのである。
また、男性たちが10人ずつ処刑場に連行される場面がある。男性たちは、手のひらに穴を開けられ針金を通されて数珠つなぎにされた。その中には、老人も子供に近い少年もいた。そして保安隊員らは、数珠つなぎにされた男性の下着を全てはぎ取る。青龍刀で20歳前後と思われる男性の男根を切り取ることさえ行う。
大量処刑の場面は3件あるが、日本の民間人が50人以上機関銃で処刑される場面がある。ここでは、国民政府軍が多数存在し、保安隊は後ろに引いていた。集められた日本人は、兵士たちに服を掠奪(りゃくだつ)され、ほとんど何も身に着けていなかったという。
事件の具体的な場面が見えてくると、中国軍が戦時国際法に違反する行為を数多く働いていたことが分かってきた。通州事件には戦闘と虐殺事件という二つの面がある。まず戦闘面からみると、敵対行為に及ぶには、国際紛争の存在→談判→相手の拒否が明確→敵対行為、という順序を踏まなければ戦時国際法違反である。ところが、保安隊は、日本軍に対して何の談判もなく、いきなり攻撃してきたのである。
次に虐殺事件という面からみていくと、保安隊と国民政府軍は、民間人殺傷、殺害後の死体陵辱、敵国人である日本人の私有財産掠奪、という三つの戦時国際法違反の犯罪行為を行っている。筆者が紹介したのは衣服の掠奪だけであるが、多くの日本人が、お金や時計、指輪、眼鏡やハンカチなども掠奪されている。
ここまでの展開から分かるように、これまでは保安隊が責任者であるとされてきたが、国民政府軍兵士は、三つの処刑場面のうち二つの場面を主導しているし、事件の中で最も残虐な行為と思われる、妊婦の腹を裂き胎児を取り出す行為も行っている。虐殺事件の責任者は保安隊と国民政府軍であると位置付けなければならない。
しかも、親日派政権であるはずの冀東自治政府所属の保安隊であるが、基本的に、国民政府の影響下にあった。確かに保安隊は、33年の成立当初は親日派が中心であった。だが、35年2月、日本側と中国側の交渉で、国民革命軍から約5000人が保安隊に加わった。この5000人を率いていたのが、通州事件の首謀者である張慶余と張硯田であった。さらに、同年8月には、親日派の中心人物であった保安隊第1総隊隊長の劉佐周が、国民党によって暗殺されていた。要するに、既に35年の時点で、保安隊は国民政府軍に乗っ取られていた。通州事件の本当の責任者は、国民政府なのである。
さらに言えば、通州事件はジェノサイドである。ジェノサイドとは民族殲滅(せんめつ)という意味である。事件のあった7月に入ると、通州の街を銃剣と青龍刀を持って行進し、「日本人皆殺し」「人間でない日本人は殺してしまえ」と叫ぶ学生たちの姿が確認されていた。また保安隊は、事件前日に日本居留民宅に「△」や「×」の目印を付けておき、事件当日には日本の民間人を見つけ次第、次々に虐殺していく。虐殺された人数は、朝鮮人を含む日本人421人のうち225人に上った。まさしく、中国軍は、通州における日本人殲滅を図って、日本の民間人の過半数を殺していったのである。
独立国ならば、通州事件のような自国民に対するジェノサイドを歴史教育で教えるべきである。日本が国際社会の属国であることは、第9条護持だけではなく、通州事件の教育をサボタージュしてきたところにも表れている。中学校や高等学校の歴史教科書が通州事件を詳しく取り上げることを切に望むものである。なお、通州事件の具体像については、藤岡信勝編著『通州事件 目撃者の証言』(自由社、2016年7月)を参照されたい。
(こやま・つねみ)






