「テクノ社会」に潜む陥穽
心の迷走状態が常態化
求められる「感情調整力」
昨今の急速に進展する「メカ化現象」は、「テクノ社会」を加速させ、時々刻々と洪水のごとくに情報が氾濫(はんらん)し、それらの情報に振り回されて、心が迷走状態に陥っているのではなかろうか。
人々は、このテクノストレスによってマインド・ワンダリング(心の迷走状態)が常態化しつつあり、常にスマートフォンを手に取ってメールやインターネット交流サイト(SNS)をチェックし、その都度、心は過去や未来へと際限なく彷徨(さまよ)い、深刻な『ゲーム障害』に陥り、自分の主体性を失いつつあるのではなかろうか。
ある精神科医の指摘によると、スマートフォンが普及して以降、うつ症状や不安状態を訴える人々が急増しているという。また、厚生労働省が先頃実施した調査によれば、気分障害者数は100万人を超えて増加傾向にあるという危惧すべき状態にあるという。
確かに「メカ」は便利で能率と効率を高めて利便性に富む半面、精神的な豊かな心までもが「メカ化」されることが懸念されるのである。なぜならば、それはあたかも「發(は)ね釣瓶(つるべ)」の諺(ことわざ)のごとくに“機械ある者は必ず機事あり、機事ある者は、必ず機心あり”(「荘子」・外篇天地)と述べているからである。すなわち「機械ができると便利であるから、その機械に依存しいつとはなしにそれに振り回されて心が不在になってしまう」という。
それが正しく、今日いうところの感情(気持ち)が乏しくなり、次第に他者に対する思いやり(共感性)を失う、いわゆる「失感情症」に陥った状態ではなかろうか。ハーバード大学のピーター・シフネオス教授(精神医学)は、その著『短期精神療法と情動的危機』(1972年)で“性格の豊かさと柔軟性を失い、他人との共感性を失い、情緒不安定に陥りやすくなり、情緒性が狭小化する症状”を「アレキシサイミア」(失感情症)と呼んでいる。
それ故に、「テクノ社会」の今日、メカに振り回されずに心に張りのある柔軟な生き方が今、求められているのではなかろうか。それが心の健やかさ、すなわち「メンタルヘルス」に他ならないのである。これは、一般的には「精神保健」と訳されているが、具体的には「著しい不安や悩みのないというだけでなく(多少の不安や悩みがあっても)、家庭・職場・地域社会などに適応かつ順応し、人生に希望や目標を持って生き生きと生活し、自己実現(より良く成長しようとする意欲の発揮)のできる状態」ということである。
このような「心の健やかさ」を高良武久(森田療法の森田正馬の高弟)は次の七つの条件を挙げて説明している。
・建設的に自他共に役立つ仕事を続けることができる。
・自分の言動に責任を持つことができる。
・自然に逆らわず、あるがままに生きる。
・他人の幸せを喜び、不幸を悲しむことができる。
・自制心、反省心を持って己を顧みること。
・物事に臨機応変に対処すること。
・日々の生活に余裕(ゆとり)を忘れないこと。
これらは、いずれも心に柔軟性と「感情調整力」を持つことが求められているのではなかろうか。
ストレス学説(1936年)を唱えたH・セリエ教授(モントリオール大学)は“ストレスそのものではなく、そのストレスをどう受け止めるか”という反応が重要であることを述べている。
つまり、ストレス要因によって、心身に歪(ひず)みが生ずるが、その歪みをはね返す力として、レジリエンスすなわち「精神的回復力」(復元力)が重要なのである。
ジョージ・ボナーノによれば、「極度の不利な状況に直面しても、元の平衡状態を保つことができる能力」をレジリエンスと呼んでいる(2004年)。分かりやすく述べれば、“心の折れにくい生き方”ということであろう。
かつて、夏目漱石はこう述べている。“智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ”(『草枕』明治39年)と。つまり、知・情・意のいずれかに偏ると“とかくに人の世は住みにくい”というのである。
そこで、何はともあれ、人間の知恵を働かして『菜根譚(たん)』にある「風、疎竹に来る、風過ぎて竹は声を留めず。雁、寒潭(かんたん)を渡る。雁去って潭に影を留めず」(前集・82)の心境を持っていたいものである。そう語っているのは、大脳生理学者の時実利彦教授である(その著『人間であること』179ページ)。そこには何事につけても“捉われない”柔軟性のある「臨機応変」な生き方があるのではなかろうか。
今、改めて「テクノ社会」を生きる心の処方箋を見詰め直す時、“事去って心隨(したが)って空し”(後々まで執着するものはない)の思いを抱くのである。
終わりに、何事も謙虚に受け入れる「明鏡止水」の心境でありたいと思うのである。なぜならば『荘子』にこう述べているからである。
“人は流水に鑑みるなくして 止水に鑑みる”と。
(ねもと・かずお)