循環型人生観で意義ある生を
四季に見立てて人生理解
死んだらおしまいの直線型
吉田松陰の最後の言葉を記した留魂録というものがある。処刑を前にした自身の心情を今に伝えている。「人にはそれぞれに相応しい春夏秋冬がある。十歳にして死ぬ者には十歳の中に自ずからの四季がある。二十歳には二十歳の四季がある。五十歳には五十歳の、百歳には百歳の四季がある」。このように記した後で、「私は三十歳、四季はすでに備わっており、私なりの花を咲かせ実をつけているはずである。もし同志の諸君の中に、私がささやかながら尽くした志に思いを馳せ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それは即ち種子が絶えずに穀物が毎年実るのと同じで、何ら恥ずべきことではない」と同志への期待をしたためて文章を終えている。
このように四季に見立てて人生を理解することは、多くの日本人の共感するところではないだろうか。日本は四季に恵まれている。四季がはっきりしている国で暮らす人々にとっては、冬は死と滅亡の時ではなく、春へとつながる再生の準備の時だと経験的に知っている。つまり、我々の時間意識は、春に始まって冬で終わりという直線型ではなく、四季が巡り冬のあとには生命が芽吹く春を迎えるという循環型の意識が組み込まれているのだ。そして、そのような時間意識は、単に自然界や四季を見るときにのみ抱く感覚ではなく、先に紹介したように、人生にも四季があるという循環型人生観にも連なっているのではないだろうか。
例えば、日本人の心の琴線に触れる童謡に「ふるさと」がある。その歌詞には、「こころざしを はたして いつの日にか 帰らん 山は青き ふるさと 水は清き ふるさと」とある。人間は人生の春ともいうべき志を果たしたならば、そこにとどまり続けるのではなく、人生の冬とも形容すべき故郷に還りゆく存在なのだと暗示している。ここにも、直線型ではない循環する人生観を見いだすのである。
さて、この循環型の世界観は、四季が明確な日本人に特有のものだろうか。人種や思想を超えて、人間のアイデンティティーの底流には、この循環する世界観がありはしないだろうか。大生命という円上を、弧の役割をもって歩みゆく人間の姿を感じはしないだろうか。以下に、世界の宗教にも科学にも触れながら、そのことを三つの視点で述べてみたい。
その一つは仏教である。我々にもなじみ深い言葉に「往生」というものがある。人が亡くなったことを意味する。しかし、よく字を読み直すと、「往(い)って生きる」と書くのだ。ここにも死は新たな生であることが暗示されている。浄土真宗の教えに、「しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり」とある。往相とは迷いの世界である娑婆(しゃば)から悟りの世界である浄土へ往くことであり、還相とは浄土から衆生を救うために再び娑婆へ還ることである。ここには、人間は生と死の間を永遠の旅をするという循環の思想が横たわっている。
二つ目はキリスト教である。一般的に、キリスト教は創世記に示された世界創造から始まって黙示録にあるように世界の完成で終わるという、いわば直線型の時間の流れとして捉えられることが多い。しかし、よく観察すると、そこにもまた循環する世界観を見ることができる。旧約聖書のヨブは試練を経た後でこう語る。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう」と。また、新約聖書のへブル書では、「彼らは自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです」と語って、巡り戻るべき故郷という世界観を示している。
三つ目は科学の知見である。個人レベルで見るならば、我々個々はこの世に姿を現し、いくばくかの時を過ごして世から消滅する存在にしか見えない。ところが、遺伝子のレベルで見るならば、我々の遺伝子は完全にコピーされて祖先から受け継がれ、自分を経由して完全にコピーされて子々孫々に伝わっていく。しかも、我々が受け継いだ遺伝子には、何十億年という生命誌と地球の歴史が宿っている。このことを考えると駅伝をイメージしてしまう。選手は前走者からタスキを受け継ぎ、定められた区間を疾走し、また次の走者にタスキを受け渡す。同様に、我々も遺伝子という生命誌のバトンを受け取り、それを我が身に預かりながらある区間を走り抜け、次の世代にバトンを受け渡す。それを繰り返しながら、大生命の循環の営みに参加しているのではないだろうか。
さて、人生の意気軒昂(けんこう)は、世界を直線で見るか、循環で見るかにかかっているのではないだろうか。今日、多くの日本人は直線型の世界観を身に纏(まと)い、死んだらおしまいだから今をせいぜい楽しくという程度の思いで暮らしている。その象徴を電車内の光景に思う。誰もがスマホの画面にくぎ付けで心奪われ、葬儀会場のような無言で無表情な人々が溢(あふ)れている。
今もなお、どこからか「諸君の中に、私の志に思いを馳せ、それを受け継いでやろうという人がいるだろうか」と、松陰の声が聞こえてきそうである。
(かとう・たかし)






