田舎暮らしを考えてみる

宮城 能彦沖縄大学教授 宮城 能彦

精神的余裕ない都会人
東京一極集中見直すべき時

 調査や学会などで、いわゆる「田舎」に行くことが多い。そこでいつも感じることは田舎の人たちの親切さと勤勉さである。

 調査をさせてもらっている私がお世話になっているのにもかかわらず、「これおいしいから食べて」「これお土産に持って行って」と手作りのお菓子や野菜や果物をもらうことも多く、いつも恐縮している。

 先日は和歌山の山村でミカンを、その前週には熊本の山村で唐イモをたくさんいただいた。熊本では帰る直前に「ちょっと待っててね」と言われ、「これ食べてから帰りなさい」とたくさんの唐イモの天ぷらを持ってきてくれ、その親切さに頭が下がるばかりだった。

 もちろん、田舎での生活は「いいこと」ばかりではない。

 濃密な人間関係故の助け合いや支え合いもあるが、プライバシーを保つことは難しく、困っている人を皆で救済するが、出る杭(くい)は打たれる。

 それに対して都会で生活する私たちはどうなのであろうか。それを象徴する出来事が数年前にあった。

 東北の被災地の避難所で生活していたおじいちゃんとおばあちゃんが、縁あって沖縄に遊びに来てくれた時のことである。2人の老人の付き添いとして東京から2人の40代の女性も一緒だった。その4人を私の車に乗せ、2泊3日の沖縄本島北部やんばる旅行。

 田舎暮らしの2人の老人は、たくさんのお土産を持って来たばかりでなく、お土産を買うためにお店に連れて行くと、いつの間にか私の分の泡盛まで買ってしまう。

 「そんなに気を遣わないでください」「いえいえ、泡盛お好きでしょう」という会話の繰り返しである。

 交流したやんばるのおじぃやおばぁも、持って来た材料で一緒に料理を作ったり、これまたたくさんのお土産を持たせたり。

 それに対して東京から来た女性2人は、何をするにしても「割り勘にしましょうね」と言うけど、「ガソリン代も高速代も気にしないでください」と私が言うと、「あ、そうですか。ありがとうございます」とあっさり言ってしまう。お土産は持って来なかったのに、老人2人に便乗してたくさんのお土産を持って帰って行った。

 もちろん、私は、都会の人はケチだと言いたいのではない。その2人を見ていると、精神的に余裕がないことがよく分かったのだ。せっかく沖縄ののんびりとした田舎に来ているのに、いつも何かに追われ、要領よくやろうと計算ばかりしている。そして、自分を守ろうとして腹を割って話すこともない。老人2人の付き添いのために自費で沖縄に来ているのだから「ケチ」ではないはずである。しかし、行動の一つ一つが神経質で、他人に心を許せていない。自分のことで精いっぱいという感じである。

 田舎の人は、本当によく働く。

 「ちょっとお茶にしましょうか」と言って用意するのは、自分の畑で取れた果物で作った手作りのお菓子で、それを食べる場を設定するのにも手間暇かける。そして、食べたかと思ったらすぐに後片付けしてお茶碗を洗い、畑仕事に戻っていく。

 私たちの感覚からすれば、少しも休んだようには見えない。一日中身体を動かしている。

 調査で遅くなると、必ず泡盛を勧められる。時には氷なしで30度の泡盛をストレートで飲まなくてはならない。さすがに、深夜になって私は酔いつぶれてしまうが、朝の5時には起こしに来て、「これから畑に行ってミカンを取りに行こう。お土産で持たせるから」と言う。昨晩は私以上に飲み、私より遅くまで起きていたはずなのに。

 このような話は昔から定番のように繰り返し語られている。私が何か新しいことを言っているわけではない。そして、「田舎暮らしと都会暮らしとどちらが幸せか?」という問い掛けも、高度経済成長期から現在までずっと続けられている。

 しかし、高度経済成長期以来、日本のムラでは人口が減り続け、東京は人口が増加している。「田舎暮らしの方が人として幸せになれるのかもしれない」と思いつつも、人々は都会に出ていく。少しだけ変化したのは、田舎暮らしに憧(あこが)れて移住する都会の若者が少しずつ増えていることだ。

 おそらく東京オリンピックまでは景気は良いであろう、と皆が思っている。その後が心配だ、とも口をそろえたように皆が言う。

 では、オリンピック後の対策として具体的に何をすればいいのか。それは誰も分からない。しかし、過疎過密の問題だけでなく、少子高齢化、エネルギー問題、食糧問題、そして、離島の国防問題の解決を考えるために、今度こそ東京一極集中を本気で見直す時が来たと私は思う。

 そのためには、まず多くの人が田舎の暮らしを体験してみることだ。将来、濃密な人間関係でお互いに助け合うが、出る杭を打つことなく応援するというような理想的なムラがつくれるかもしれない。

 私たちは何のために働いているのか。生活しているのか。青臭い問いに聞こえるだろう。しかし、それを考えることが今こそ必要なのだ。

 私たち日本人が幸せになるために。

(みやぎ・よしひこ)