祈りが秘める精神的回復力

根本 和雄メンタルヘルスカウンセラー 根本 和雄

人生を支える基軸に
魂の呼吸かつ自然の良薬

 昨今のメカ化社会の中で人々は、「祈る」ことを忘れ去っている気がしてならない。改めて「祈り」に秘められた恩寵(おんちょう)について考えてみたいと思う。

 日本語の「いのり」という言葉の語源は「生宣(いの)り」であるという。「宣(のり)」とは宣言ということで、つまり「祈り」とは「生命の宣言」で、人生にはいろいろな悩みや困難が待ち受けているのを“自分はめげずに頑張る”という宣言で、それが祈りである。〈prayer〉には、もともとラテン語の「乞う」の意味が含まれて「願う」「頼む」という意味である。

 「祈り」は人類の歴史とともに始まり、7万年前のネアンデルタール人の遺跡からその地では自生していない花粉が発見されたという。それは死者に手向られた花の花粉で、そのことは、死者への「祈り」が人類の歴史とともに存在していたことの貴重な証しではなかろうか。このことを思うにつけ、人間とは〈Homo.prayer〉でありすなわち「人間とは祈る存在である」ということができるのではなかろうか。

 フランスの生理学者、A・カレル(1873~1944)は、“祈りは人間が発生させることのできる最も強力なエネルギーである”という。

 「祈り」はもとより、自分の力ではどうにもならない時に、絶対的なもの(宇宙・神・仏)の力に縋(すが)る行為で、そこには祈る人の幸せを願う営みであると同時に他者の幸せを願う「利他的祈り」でもある。例えば、宮澤賢治は“世界が全体幸福にならなければ個人の幸福はありえない”(「農民芸術概論綱要」)と述べているように、そこには、利他的祈りにより自己の幸せを願う「利他的利己」の祈りであったのではなかろうか。

 また、「利他的祈り」として、よく知られているのが、イタリア、アッシジの聖フランチェスコの「平和の祈り」である。

 絶望のあるところに希望を/悲しみのあるところに喜びを/慰められるよりも慰めることを/理解されるよりも理解することを/愛されるよりも愛することを/人は自分を捨ててこそそれを受け/死んでこそ永遠の命に復活するからです

 ここには「こうしたい」「こうあるように」と願う「ポジティブな祈り」の営みがなされているのである。近年この「ポジティブな祈り」が心身両面に与える効果が注目されている。

 例えば、ウィスコンシン医科大学教授・高橋徳によれば、人の幸せを祈ることによって、脳内物質であるオキシトシンが増えるという(著書「人は愛することで健康になれる」参照)。このオキシトシンというホルモンが、自分自身を幸せにするのみならず免疫力を高めて、体のバランスを整えてくれると同時に、祈りには、人生の生き方の基軸として困難を乗り越える「精神的回復力(復元力)」(レジリエンス)が秘められているのではないかと思う。すなわち「心の折れにくい生き方」である。

 生命科学者の柳澤桂子は、その著「日本人への祈り」(2008年)で“祈りは人間が自己を高めるために行うものではないかと思う”と述べ、さらに“祈りは大いなるものを畏敬する心の中に組み込まれている行為である”という。このように「祈り」によって自我を超えた超越的世界との結合を可能にしてくれるのである。それ故に、祈りには、秘められた多くの恩寵があるのではなかろうか。この秘められた恩寵を実践された人物の一人が仏教詩人の坂村真民(1909~2006)ではないかと思う。

 「念ずれば花ひらく」と題した、次のような詩を残している。

 念ずれば/花ひらく/苦しいとき/母がいつも口にしていた/ことばを/わたしもいつのころからか/となえるようになった/そうしてそのたび/わたしの花がふしぎと/ひとつひとつ/ひらいていった

 今、人々は祈ることをどこかに置き忘れているのではなかろうか。自然の偉大な力に跪(ひざまづ)く時、そこには、無限の豊かな恵みの賜物(たまもの)に気付かずにはいられないのである。

 村上和雄(筑波大学名誉教授)は「祈りには好ましい遺伝子をオンにし、好ましくない遺伝子をオフにする効果があるのではないか」という(「人は何のために『祈る』のか」参照)。そして、ハーバード大学医学部の心身医学者、ハーバート・ベンソンは祈りが効果的に働いた病気として、高血圧・心臓病・不妊症・がん・エイズ・うつ病・リウマチなどを挙げている(同書)。また、脳科学者の中野信子は、「前向きな心・感謝の思い・相手を思う祈りは自然に脳の働きを活性化し、それによって自然に免疫力を高めることが最近の脳科学の立場から明らかになってきた」という(「脳科学からみた『祈り』」参照)。

 正しく“「祈り」こそが自然の「良薬」ということ”ではなかろうか。また“感謝する人ほど幸せを感じることができる”とカリフォルニア大学教授のソニア・リュボミアスキーは語っている。

 このように、今、改めて「祈り」の恩寵を深く痛感せずにはいられないのである。

 古代西方キリスト教会の教父、A・アウグスティヌス(354~430)はこう語っている。

 “祈りとは魂の呼吸である”と。

(ねもと・かずお)