日本は国連改革の先頭に立て

ペマ・ギャルポ拓殖大学国際日本文化研究所教授 ペマ・ギャルポ

時代遅れで偏った機関
米国のユネスコ脱退は正当

 このたびアメリカ合衆国とイスラエルがユネスコから脱退すると報道された。その理由としてはユネスコがパレスチナ問題に関し、政治的中立を失った行動を取ったことに対する抗議の行動である。アメリカは以前、1984年にも1回脱退しているので驚きはしなかった。むしろよくやったという感じもある。

 そもそも国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)は諸国民の教育、科学、文化の協力と交流を通じて国際平和と人類の福祉のために貢献することを目的とした国連の専門機関である。世界50数カ所に事務所を構え2000人の職員が働いている。加盟国もほぼ国連加盟国と同数で190数カ国が参加している。

 この機関で働いている職員は国際公務員として認められており、出身国などの特定の国家の利益のためではなく、所属する機関および国際社会の共通の利益のために中立の立場で働くことが求められる。国連およびその専門職の職員にはレセ・パセ(laissez-passer)という一種の旅券が与えられる。レセ・パセには赤と青の2種類があり、赤のレセ・パセを携帯する幹部職員には外交官が有する外交特権と同一の便宜が与えられている。

 日本では世界遺産の登録機関として国連機関の中でもよく知られている。また日本には国連の活動を支援する幾つかの団体の中でもユネスコとユニセフは特に支持されており、国連の活動の中でも親しみを覚える人は多いだろう。しかしこの機関はユネスコの憲章とは裏腹で、過去においては旧ソ連の影響が大きいということで問題になったことがある。アメリカが一時会費滞納、そして脱退したのもその一例である。

 同憲章の目的としては世界の諸国民に対し、人種、性別、言語、宗教の差別無しに正義と法の支配および基本的な自由に対する普遍的な尊重を助長するために教育や科学および文化を通じて諸国民の間の協力を促進することによって、平和および安全に貢献することになっている。だが事務局長のイリナ・ゲオルギエバ・ボコバはこの中立さを破り、特定の国や思想に傾斜する向きが目立った。

 中国や韓国の一方的な申請によって南京大虐殺や慰安婦問題をユネスコの無形文化遺産に登録しようとしたり、潘基文前国連事務総長同様、中国の抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典にも参列している。これらの行為は国際公務員としてあるまじき不当かつユネスコ憲章そのものに反している。従って今回のアメリカの脱退は正当であり、本来であれば責任を問われるべきことであると考える。

 次期事務局長に選出されたフランスのオードレ・アズレ前文化大臣にはぜひ失われた信頼を回復できるような公正公平な姿勢で取り組んでほしいと心から願うものである。

 ユネスコのみならず国連そのものを見直す時期に来ている。46年に52カ国から始まった国連も今は195カ国に膨らみ、常任理事国における拒否権の発動は人類の繁栄と世界平和に貢献するというよりも、五つの常任理事国の国益追求の象徴的な道具と化し、国連の機能を低下させる要因にもなっているのではないだろうか。日本国憲法同様、時代遅れの国連機構も時代に合ったものに改革することに日本は先頭に立つべきである。

 過去5年間の世界の政府開発援助(ODA)の額などを見ても、中国はアメリカの額に近づいており、ただ国連の機関から脱退するだけではかえって2049年までに世界のリーダーになると言明した習近平の「中華大夢」の具現化に利用されてしまう。

 今回の中国共産党大会の一番注目すべき部分は、この大夢に対し、習近平自ら具体的に20年までに比較的豊かな国になり、49年の共産党政権樹立100周年までに世界を導く確固たる地位を占めると言い、しかも政治制度においては他国や他制度のコピーをしない、すなわち共産党独裁を維持し、国際社会の常識に基づく民主化が無いことも明確にした。人工島などに関しては自分の5年間の第1期政権の大きな手柄であると断言している。

 北朝鮮問題に関してアメリカと日本も中国に問題解決への期待を懸けているようだが、私はたとえ中国が北朝鮮に対し何らかの形で抑止する行動に出たとしても、結果としてはもっと厄介なことになるのではないかと危惧している。中国は平気でかつての共産主義の兄弟ソ連(1960年代)やベトナム(79年)に対しても自ら軍事行動を起こしている。

 今回、北朝鮮に対して中国が自国の影響力を強化するためどのような荒療治を施しても、目先のことしか見えない世界のメディアは拍手喝采で賛美するかもしれない。アメリカ合衆国をはじめ、日本など真の自由と民主主義を尊ぶ国々は、国連問題の改善、北朝鮮問題の解決に対しては一時的な問題解決ではなく、先々の世界平和と人類の発展を十分に熟慮すべきであると思う。