量子力学が変えた科学的常識
自然界や人の本質は波動
原意識の呼びかけで物質化
15年ほど前のことだが、教育関係者の会合の中で、私が魂の大切さに触れた時に、ある大学の教員から、なに宗教じみた主張をしているのか、魂などという非科学的なことを、と批判めいた発言があったのを覚えている。彼にしてみれば、人間や教育の営みも科学的に捉えなければいけないのだと強い信念を持っていたのだろう。
かように、昨今の世間の判断基準は、その大方が科学的であるかどうかで決められる。星占いや幽霊のたぐいは非科学的だという世間話レベルから始まって、政党の綱領にわざわざ「科学的」と掲げているところまで、社会の隅々に「科学的判断」正当論は浸透している。
確かに、これらは真っ当な主張のようにも映るわけだが、最先端の科学が捉えた事実や世界を知るにつけ、これまでの科学的常識がひっくり返るような驚天動地の実像が見えてくるのだ。
さて、この100年で飛躍的に進歩した科学の分野、量子力学を例に考えてみたい。それまで人間やモノなどを構成している最少単位は原子だったが、さらにそれを微細に観察すると、原子の中で運動している電子などミクロ粒子が発見され、それらを総称した量子力学の登場によって科学的な見方は一変した。
たとえば、一つのミクロ粒子は“粒子(モノ)”でありながら“波動(状態)”としても振る舞う「粒子・波動の二重性」と呼ばれる奇妙な性質を持つ。しかも、この振る舞いが不思議なのは、ミクロ粒子は観測するまでは実体がない「波動の状態」にあり、観測した瞬間に突如として波動が収縮して「粒子の状態」に飛躍するのだ。
つまり、量子力学の世界では、「観察」という意識的な行為が決定的な影響を持っているのである。ノーベル物理学賞を受賞した理論物理学者ユージン・ウィグナーも「意識に言及することなしに、量子論の法則を定式化することは不可能だった」と語っているほどである。
さらに不思議なのは、「量子のもつれ」と呼ばれているもので、相関のある二つの粒子同士は、たとえ両者が何光年離れていたとしても瞬時に情報を伝達してしまう。あるいは、一つの粒子が場所を特定せずに偏在することも証明されている。
ここまでくると、もうSFの世界に入ったような錯覚になり、従来の科学の常識は色あせて見えてしまう。このように、従来の科学の次元と常識をはるかに超えた世界が量子力学の実像なのだ。
21世紀の科学の最先端が指し示していることは、我々の世界認識や人生観を大きく転換させることになるのではないだろうか。二つの視点でまとめてみたい。
第一は、自然界を含めて我々を構成しているミクロ粒子が、通常は波動であって観察されたときに粒子として物質化するという事実は、自然界や人間はその本質は波動であって、意識ある方の呼びかけがある期間だけ可視的な存在になっていると考えられないだろうか。我々の生活を振り返っても、実存の深みを支えているのは、見えざる何か、波動のようなものだと実感することがある。
たとえば、我々はパンによって生きているだろうか。一日食事をしなくても死ぬことはないが、心ない人間の一言で死を選ぶことさえある。このように、「言葉」も「祈り」も「願い」も「愛」も、色や形があるわけではないが見えざる何かであり、波動として人間の魂の深みに届き、人の生死に関与している。
また、波動が本質であり、意識ある方の呼びかけがある期間だけ可視的な存在になっているのならば、その可視的な役割が終わった時に、また本来の姿に戻っていくという希望を抱くことができる。
第二は、科学と宗教それぞれのアプローチが接近しつつあることを証明していることである。先ほどのウィグナーも指摘しているように、「意識に言及することなしに、量子論の法則を定式化することは不可能だ」ということは、世界や人間を存在させ、生かすためには、原意識とでもいうべき存在が不可欠であることを予感させる。しかも、その指摘が科学の最先端の結論として提出されていることに深遠さを思うのである。
自然界を含めて我々を構成しているミクロ粒子に先んじて意志を持ち、観察している原意識とは何だろうか。それは人格を備えたサムシング・グレートではないだろうか。まさに、科学が追い求めてきた真実の右腕と、宗教が追い求めてきた真実の左腕が触れつつある時代に我々は生きている気がするのだ。
ところで、100年前に量子力学の研究の幕が切って落とされた頃、内村鑑三は科学者の真摯な姿について短い文章を残している。「信仰のさかんなりし時代にありては、偉大なる科学者の間に熱心なるクリスチャンが少なくなかった。ニュートン、ファラデーらは、そのいちじるしき者である。彼らは顕微鏡または望遠鏡の下に神を見たのである。まことに、造花(科学の意)の研究は聖書の研究と等しく神聖である」。神聖なる意識に言及することなしに、世界と人間は語り得ないのではないだろうか。
(かとう・たかし)