「死んだらおしまい」なのか

加藤 隆名寄市立大学教授 加藤 隆

人間をダメにする死生観
現代科学は「死後生」に隣接

 戦争や事故、あるいは地震や津波によって愛する者を亡くした人々が、喪失に暮れる日々の中で通常では体験できないような出会いをすることがある。東日本大震災から3年後にNHKが放送した「シリーズ東日本大震災 亡き人との“再会”」でも、そのことが多く語られていた。3歳の息子を亡くした母親は語る。「息子がそばで遊んでいる気配を感じました。“こっちで食べなよ”と言うと、その瞬間に、急に動くはずもないアンパンマンの車のおもちゃが音をたてて動き出したんです。一瞬びっくりしましたが、息子だとすぐに分かりました」。また、妻と2人の息子を亡くした父親は語る。「私が寝ていると、トントンって肩をたたくんです。ふと見ると、そこには3歳と1歳になった2人の息子と不思議な女の子が立っていました。長男が“パパ、大丈夫だからね”と励ましてくれました。二男は無邪気にきゃっきゃと笑っていました。それ以来、家族がいつも見ていてくれて、共に暮らしているように感じるようになりました」

 さて、ある宗教民族学者が指摘していたが、世界の宗教が指し示している死後の在りようは、結局のところ三つに集約されるという。一つは、西方浄土とかサムシンググレイトなど大きな生命のふるさとでの融合や再生であり、二つ目は、この世にもう一度生まれ変わってくるという輪廻(りんね)転生なのだという。そして、三つ目が近代になって人々の心を占有している死生観で、死んだらおしまいというものである。もちろん、どの死生観を選ぶかは個々人が判断することであろうが、結論から言えば、三つ目以外の死生観の中にこそ、人生を生きていく知恵と活力が漲(みなぎ)っていると思うのである。死んだらおしまいの死生観がどんなに人間をダメにするかを3点でまとめたい。

 第一は、人間の尊厳を著しく傷つけ、精神的虚無を招くことである。進化論が語るように、アメーバから偶然に偶然を積み重ねてたまたま人間となり、死も偶然に訪れ、死んだらおしまいならば、自分はその辺の石と同程度のものであり、結局は人間の精神的廃頽(はいたい)しか残らない。これと似たような出来事を、旧約聖書のイザヤ書は繰り返し記している。敵が攻め込んできて危うい状況に陥っているにもかかわらず、イスラエルの民は退廃の極みの中で「食らえ、飲め、明日は死ぬのだから」と叫んでいるのだ。昔も今も人々は口にする。「どうせ明日は死ぬのだ」。何と人間を無化する言葉だろうか。

 第二は、死んだらおしまいの死生観は、人間が生きることを根拠付け、実存の深みを支えている「根源愛」そのものに反しているからである。おそらく、人間が成し得る最高価値にして最大の創造は愛の実現であろう。そして、それが真実であればあるほど、愛は無窮と永遠を要求する。実存哲学者ガブリエル・マルセルは、最愛の妻を亡くすという苦悩に満ちた経験から、「人を愛するというのは『いとしい人よ、あなたは決して死ぬことはありません』と言うことだ」という言葉を残している。愛する者が死によって消滅すると思うならば、それはその人との愛に背くことであり、逆に相手の死後の生命を確信するならば、それが真の愛の証しだという主張は、死を超える愛の神秘を我々に教えていないだろうか。

 第三は、医療現場において医療者が臨床宗教師とチームを組んでスピリチュアルケアや看(み)取りを行うことが目立つようになるなど、現代科学の知見が死後生に隣接する時代になってきたということである。医学者自身からの示唆的発言も顕著である。ハーバード大学のある脳神経外科医は死後生を否定してきた人物だが、自身が経験した突然の奇病とその後の昏睡(こんすい)状態で事情は一変し、その時の臨死世界との邂逅(かいこう)に衝撃を受け、回復後に世界的ベストセラー『プルーフ・オブ・ヘヴン』を著している。

また、東大医学部教授の矢作直樹氏は著書『人は死なない』の後書きで、「死は終わりではありません。私たちの魂は永続します。そもそも私たちの本質は肉体ではなく魂ですから、病気も加齢も本当は何も怖がる必要はないのです」と語っている。このように、科学と死後生の稜線(りょうせん)が接点を持ち始め、多くの人々の共感を得ているという事実は示唆的であり意義深い。

 ところで、生と死のテーマに果敢に挑戦した女性に精神科医キューブラー・ロスがいる。名著『死ぬ瞬間』などによって医学界に大きな影響を与えた人物であるが、彼女が小児がんで余命わずかな9歳の少年ダギーに書き送った手紙(後日書籍化)の言葉は、今日でも色褪(あ)せない真実を伝えている。

 「この世でやらなければいけないことが全部できたら、私たちは体を脱ぎ捨てることが許されるのです。その体は、まるで蛹(さなぎ)が蝶(ちょう)を閉じ込めているように、私たちの魂を閉じ込めているの。そして、ちょうどいい時期がくると、私たちは体から出て自由になれるのです。もう痛いこともなく、怖がることもなく、悩むこともない」

 ギリシャ語で魂や息を意味するプシュケーという言葉には、不思議なことに蝶の意味も含まれている。味わい深いことではないだろうか。

(かとう・たかし)