少産多死社会を迎える日本

加藤 隆名寄市立大学教授 加藤 隆

多層的死生観の回復を
「生きる力の育成」が可能に

 多面的なデータの分析によって、これからの社会の在りようが予測できる時代になった。たとえば、国立人口問題研究所の統計によると、日本の出生数は1947年の270万人から減り続けており、2015年は84万人で、この減少率から推測すると25年の出生数は73万人だという。一方、死亡数はある時期までは横ばいが続いていたが、この20年間は増加の一途を辿(たど)っており、1995年の死亡数が75万人だったものが2015年には130万人に倍増している。この増加率から推測すると25年の死亡数は153万人だという。日本が少産少死社会から少産多死社会へと確実に移行していることが読み取れる。

 さらに、そのことに深い陰りをもたらしているのが、悲しい死に方の現実である。誰にも看取られずに孤独に亡くなっていく高齢者が飛躍的に増えている。特に、都市圏で目立つようになっており、経済的に、あるいは健康的に問題があって地域コミュニティーから取り残され、誰も関わる人がいない生活の中でやがて亡くなり、数カ月後に発見されるのである。高齢化社会のただ中にあって、その2割が独り暮らしであり、今後さらに孤独死が増えていくのではないだろうか。

 さて、数多くの将来予測の中で、予測の確率が100%のことが一つだけある。それは、人間は死ぬ存在だということである。我々の社会でも、ひと頃までは死が日常にあり、家族親族が畳の間に集まり、死にゆく者を囲んで死に水で送る光景が日常にあった。ところが、今の日本では、死は日常から遠ざけられ、見えなくされタブー視されていないだろうか。医療の世界では、死は敗北と捉えられているのかもしれない。このような死生観の空洞化した社会の中で、心地よいスローガンのように「生きる力」を主眼とした生命尊重主義が学校教育を風靡(ふうび)している。思うに、死をタブー視した「生きる力」の育成が果たして可能なのだろうか。

 ところで、「生きる力」が教育界で注目されるようになったきっかけは、20年前の中央教育審議会答申にある。「これからの子ども達に必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を“生きる力”と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた」と記されている。

 もちろん、これらが大切な提言であることは分かるが、主体的な学びや豊かな人間性やたくましい健康を称して「生きる力」と言うほどのことだろうか。「生きる力」というとき、その底流には、いのちとは一体何か、死とはどんなことか、人間とは一体どんな存在なのかという根本的な問いがなければ成立し得ないのではないだろうか。

 他方で、子ども達の「生きる力」の実相は深刻になっていると言わざるを得ない。たとえば、日本女子大の中村博志教授が行った首都圏の小学校高学年を対象とした調査によると、「一度死んだ人が生き返ることがあると思うか」との質問に、3割の子どもが「ある」と答えている。同様の調査は全国各地でも行われており、兵庫県内の幼児から中学生まで約4200人を対象とした死生観を聞いたアンケートの結果でも、「生き返る」「たぶん生き返る」と答えた中学生が2割に達している。ゲームの主人公が死んでも、リセットすればまた一から始められるという感覚なのだろうか。このような曖昧模糊(もこ)とした死のイメージを抱いている子ども達に向かって、「生きる力が大事ですよ。生きる力とは、主体的な学びや豊かな人間性やたくましい健康ですよ」と訴えても何も伝わらないのではないだろうか。

 翻って考えるに、「生きる力」と「死する力」は表裏一体のものではないかと思うのである。「メメント・モリ(死を忘れることなかれ)」は西洋思想の底流をなす価値観であり、日本文化の象徴である桜の潔い散り際の美に、人間の死を重ねてみていたように思う。新約聖書のギリシャ語には、「いのち」を表す3種類の言葉が用いられている。「ビオス」「プシュケー」「ゾーエー」である。ビオスは生物学的ないのちを表現する時に用いられ、英語のバイオロジー(生物学)に繋(つな)がっていく。プシュケーは、いのちの息を表す言葉だが、心、思い、精神、魂などという日本語に近い。そして、ゾーエーは各個存在を下支える根源的ないのちのことであり、肉体の死の後にもなお生き続けるようないのちを意味する。死の向こうにある生、生に内在している死という多層的な死生観を学校教育や我々の社会が回復することで、「生きる力の育成」も彩りと深まりのあるものになるのではないだろうか。

(かとう・たかし)