先人から学ぶ人間の本質

加藤 隆名寄市立大学教授 加藤 隆

「切り分ける」と「物語る」
正反対のベクトルが共に存在

 大都市への集中的な人口流入は衰えを見せず、他方で、20年後には全国1800地方自治体の半分が存続困難になると予測されている。このような二極化現象は、単に日本ばかりではなく、近代的産業国家を成し遂げた西欧諸国でも同じような光景を見ることができる。人々は故郷に背を向けて大都会を目指すのである。

 さて、19世紀の後半から20世紀初頭という時代を生きた2人の西洋人を取り上げてみたい。一人はドイツの歴史学者オスヴァルト・シュペングラーであり、もう一人はフランス人画家ポール・ゴーギャンである。両者は、職業的にも生きざまもまったく異なる人物なのだが、この同時代人を俎上(そじょう)に載せることで、人間のある本質が浮かび上がってくる気がするのである。

 まず、シュペングラーだが、彼の著した『西洋の没落』は、そのタイトルの不吉さもあってヨーロッパに大きな衝撃をもって迎えられた。一部を紹介したい。

 「文明の象徴は世界都市であり、それは自由な知性の容器である。それは母なる大地から完全に離反し、あらゆる伝統的文化形態から解放されたもっとも人工的な場所であり、実用と経済的目的だけのために数学的に設計された巨像である。ここに群集する人間は、故郷をもたない頭脳的流浪民、すなわち文明人であり、高層の賃貸長屋のなかでみじめに眠る。このように大地を離れ極度に強化された知的生活からは不妊の現象が生じる。知性は空洞化した民主主義とともに破壊され、無制限の戦争をともなって文明は崩壊する。経済が思想(宗教、政治)を支配した末、西洋文明は21世紀で滅びるのである。」

 シュペングラーがこの本を出版したのは、第1次大戦のさなかの1918年である。ちょうど100年前に当たる。やがて、彼が警鐘したように「空洞化した民主主義」はナチズムに引き継がれ、「実用と経済的目的だけの巨像」は世界恐慌の引き金になり、「無制限の戦争」は核兵器を伴う第2次大戦に引き継がれていく。彼の予言者的洞察は、文明は内側から崩壊していくことをまざまざと示している。

 同時代を生きたもう一人の人物、ゴーギャンはどうであろうか。この頃のフランスは、ベル・エポック(良き時代)と言われるほど経済的にも文化的にも繁栄を謳歌(おうか)していた時代である。産業革命の活気は社会の隅々まで行き渡り、1900年の第5回パリ万国博覧会は繁栄の象徴だった。しかし、このような繁栄に背を向けて、ゴーギャンの言葉を借りて言えば“ヨーロッパ文明の世俗的因習からの脱出の先にあるものを求めて”、彼はフランス領ミクロネシア植民地のタヒチに脱出する。その島で原色を多用しながら独自の絵画表現を確立し、その作品にはどこか宗教的な匂いや神秘性が漂う。

 やがて、最高傑作と言われている大作を1898年に仕上げるのだが、その作品名が『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』という意味深遠なものなのである。眠る幼児と3人の女性が「われわれはどこから来たのか」に対応するように右側に描かれ、中央の人物たちは「われわれは何者か」に対応する成年期として描かれている。そして、「われわれはどこへ行くのか」に対応する、死を受け入れている老女が左側に描かれている。ゴーギャンは遺作のつもりだったようで、作品完成の後、自殺未遂をしている。

 ところで、同時代人シュペングラーの著書とゴーギャンの作品から、人間の欲求の中にある、相反するベクトルを見ることができるのではないだろうか。

 一つは、「分離」「切り分ける」というベクトルである。先ほどの『西洋の没落』で言うならば、人々は「伝統的文化形態から解放され」「故郷をもたない頭脳的流浪」をどこかで望んでいる。個性と自己実現に目覚めた近代人にとっては、ウェットな風習や伝統は鬱陶(うっとう)しいことであり、もっとドライに私らしく生きたいのである。やがて、情報化された大都会の中で、自分の心身も細切れにされて頭脳的な能力を「科学的知」として切り売りされ、小さな自我の殻で孤独に生きているのが我々の実情ではないだろうか。

 二つ目は、まったく正反対の「物語る」「関係」というベクトルである。それを示しているのがゴーギャンである。彼が絵画作品に提示した「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」というテーマは、人間は根源的に「物語るいのち」を生きている存在であり、意味を求めてやまない存在なのだということを示している。

 このことを考えるときに、いつも思い出す禅僧の譬(たと)え話がある。我々は「小さな波」を自分だと思っている。しかし考えてみると、その波が波たり得るのは、それを支える大海そのものがあるからであり、風も含めて大気があるからである。小さな波の成立ひとつをとっても、これほどの支えがあるのだとしたら、「私のいのち」が成立するために、どれほどの支えと繋(つな)がりがあるかは想像を超えている。「物語るいのち」とは、このことを言い表しているのではないだろうか。

 100年後の今日もなお、シュペングラーとゴーギャンの発した問いは生き続けている。

(かとう・たかし)