品位品格失ったひ弱な日本人

NPO法人修学院院長・アジア太平洋交流学会会長 久保田 信之

久保田 信之独善的人間生む徳目主義
日本文化の中に再生の道探れ

 最近の世相を見るに、特異な性格を持った異常な人が、常識外れの問題を起こしているとは限らない。政界・官界・学界・経済界、どこを取ってみても、日本社会が持っていた「常識」あるいは「品位」「品格」が失われつつあることだけは事実のようだ。

 ご存じのように、管子に「衣食足りて、礼節を知る」とある。毎日のように、例えば大会社の社長や政界の大物が不祥事を起こし、はげ頭を下げて謝罪する場面を見せ付けられている。メディアに登場する人物の多くは、「貧困」とはまるで縁のない「豊かさ」を享受している人間のようだ。であるから「衣食が足りれば、礼節を忘れる」のが人間の性(さが)なのかもしれない、と言いたくなる。

 教育界では、今日に至るまで、「あらゆる活動を通して、人間としての品位・品格を高め、規範意識の醸成に努めるとともに、礼節と規律を重んじる生徒の育成に向けて、全学校体制で取り組む」との目標を掲げてはきたのだ。が、しかし、学校人が好きな道徳教育が、今や、完全に発育不全に陥っていることは事実のようだ。

 教育を教育活動そのものの「外に設定した価値」を実現する「手段」としか考えられない人々は、得意げに「品位・品格が大切だ」「正直であれ」「親孝行を教えない現在の教育はけしからん」等々、さまざまな徳目を並べている。

 このような「徳目主義」の凝縮したものが「儒教道徳」である。この儒教をよりどころとして道徳教育を施してきた国が、かつての中国であり朝鮮であったことはご承知の通りだ。日本がその影響を強く受けたことも否定できない。

 ところが、こうした儒教が示す「高尚な徳目」を掲げるだけで、現実生活では徹底した私利私欲に走り、「相手をだます方が、だまされるより良い」といった「狭い私」を世に送り出しているのがかつての儒教国家なのだ。

 「命の尊さ」を連呼し、「博愛精神」「基本的人権の尊重」などと、誰も反対できないような偉そうな高次元の概念を、何の悩みもなく平然と言い放っている人間が、わが国にも少なくないことは、残念ながら認めざるを得ない。

 徳目主義による道徳教育は、普遍的な価値を掲げているだけに、「独善的」で「偽善的」な人間に歓迎されている。その結果、良心のかけらもない粗暴で短絡的な「品位・品格を欠いた人間」を育成している事実に気付くべきである。

 アメリカ経由の「西洋近代思想をお手本」にして「日本」を評価し、「日本は遅れている」「日本のここが誤りだ」とか、「欧米に追い付け追い越せ」を疑いもなく主張してきたのが、現実から遊離した「理想」を口にする「進歩的文化人」に多かった。彼らは西欧近代諸国に範を求め、憧れて「個の確立」を理想に掲げ「人に依存するな」「己の運命は己の意志と判断で切り開け」「自分の意見をしっかり、はっきり主張せよ」「むやみに人に動かされるな」と、日本人を改造しようとしてきた。

 しかし、最近の荒れすさんだ世相が如実に語っているように、「進歩的文化人」はひ弱で身勝手な若者を世に充満させた。「日本には欧米とは異なる歴史があり自然がある」のであるから、一時の嵐が過ぎれば、「欧米とは異なる日本」が随所に現れるのである。「中途半端な西欧化」が、新しい混乱を生み出す結果になるのである。「日本であること」をやめない限り、解決の道がないような日本批判が平然となされて久しい。

 日本文化を基盤において人間形成を指し示した歴史的最高傑作が「教育ニ関スル勅語」であることは多くを語るまでもない。が、しかし、徳目主義に毒され「独善的」「偽善的」な人間を世に送り出してしまったのも、この『教育勅語』を絶対視してしまった道徳教育であったことも忘れてはならない。その原因は「拳拳服膺(フクヨウ)シテ皆其ノ徳ヲ一ニセン事ヲ庶幾(コイネガ)ウ」と、陛下ご自身が願われたお気持ちを無視してしまったことだ、と言いたい。日々努力をして「徳ヲ一ニセンコトヲ」とは「求め続けよ」「探し求めよ」との思(おぼ)し召しだったはずである。

 ところで、「背私向公」や「則天去私」「克己復礼」さらには「滅私奉公」その他に象徴される「日本の生活文化」の特徴は、「私心に背を向ける」とか「私心を去る努力」「騒ぐ自分に打ち克つ日々の生活実践そのもの」あるいは「必死に生きる一日一日」に価値を置くのである。この点が、西洋近代が求めた科学的合理主義や自立的個人主義といった「個の主張」とは大きく異なるところに日本文化の特徴はあるのだ。

 日本人が求めてきた品位・品格も、教育の彼方に誰かが規定した「何ものか」を基準に考え実践するのではなく、常に、自分の至らざるところを誠実に見詰め、騒ぐ自分に打ち勝ち、この貧弱な自分を限りなく超えようとする真摯(しんし)な生き方そのものなのではなかろうか。世が乱れている今日こそ、改めて、日本文化の中から日本再生の道を探ってみたい。

(くぼた・のぶゆき)