「信じること」に満ちた現代

加藤 隆名寄市立大学教授 加藤 隆

作った人を信用し食事
科学的知見も信頼が根底に

 現代は不信の時代だと言われる。ひところまでの日本ならば、隣近所の大人が地域の子どもたちを叱ったり声掛けしたりすることが日常光景だったが、昨今の親は子どもに「知らない人が声を掛けてきたら逃げなさい」と教える。学級の崩壊現象や教師へのクレーム、育児放棄や虐待で養護施設に暮らさざるを得ない子どもたちもまた、その根底には人間への不信が横たわっている。そして、現代社会の不信の最たるものは、宗教への不信ではないだろうか。

 最近のアメリカの調査によると、日本人の57%が無宗教であり、無神論・唯物論を国是とする中国の無宗教52%よりも高いのである。おそらく、無宗教を自負する人々の胸中を察するに、可視化も数値化もできない超越者や人間の霊性を信じることなど、科学的見識から取り残された古臭い教えか妄想に過ぎないのであろう。

 さて、本当に「信じること」から遠ざかった時代と言い切っていいのだろうか。逆に、我々の生活には、信じていなければなし得ない行為が満ち溢(あふ)れていないだろうか。幾つかの例を挙げて考えてみたい。

 まずは、「食べること」。動物であれば、生まれつき嗅覚が優れており、それが食すべきものかどうかを本能的に峻別(しゅんべつ)する能力を持ち合わせている。しかし、人間はそれが相当に鈍く生まれてくる。そこで、「食べること」に関して人間が導き出した知恵は、人の手を介した「食品」であり「料理」という文化にある。このことは何を意味しているだろうか。我々は、信じる心的態度なしに「食品」も「料理」も口にすることはできないという事実である。どんなに安かろうと、食中毒事件を起こした業者の食品には手が出ないし、テロリストが作った料理がどんなに美味しそうでも口にしない。つまり、食べるという行為は、「食品」を作った者を「信じること」、「料理」を作った者を「信じること」がなければ成立し得ないのである。

 「飛行機に乗ること」も同様である。1985年に日航機の悲惨な墜落事故が起きたが、その直後に乗客数が大きく減った。減った理由は簡単で、飛行機が「信じられなく」なったからである。裏を返せば、通常は「信じて」乗っているのだ。この航空会社なら機材もメンテナンスも間違いない、この航空スタッフなら信頼できるという心的態度があるからこそ、我々はその飛行機に乗ることができるのだ。

 同様に、いわゆる「科学的な知」「科学的な態度」の根底にも「信じること」が強く結び付けられていないだろうか。我々は学校教育の中で多くの科学的知識を学びながら成長するが、教科書に書かれていることを疑ってかかった上で、一つ一つを自分の目で確認して、それが正しいと認識しているわけではない。多くの場合は、科学者が成した成果を「信じて」いるに過ぎない。「地球は丸い」という事実を自分の目でしかと確かめる方法は、宇宙飛行士ならいざ知らず、容易には持ち合わせていないはずである。つまり、我々は科学的知見を学童期以来積み重ねてきたと自認しているかもしれないが、その多くの部分は科学者の説明を「信じている」に過ぎないのだ。

 最後に、我々自身の直接経験に基づいて「科学的に確かめる」ということを考えてみたい。多く人々は、自分が実際に見たり(視覚)、聞いたり(聴覚)、触れたり(触覚)したことは、間違いない客観的事実だと認識している。はたして、本当にそうだろうか。例えば、夜空に赤々と輝くオリオン座のベテルギウスは、地球から642光年のところにあるが、超新星爆発を起こして消滅している可能性が指摘されている。しかし、その様子は地球上の我々にとっては642年後しか分からないのである。今も天文愛好家は、望遠鏡から眺めて「ベテルギウスが輝いている」と科学的な客観的事実を述べるかもしれないが、正直に言うならば、「ベテルギウスが輝いていると信じている」というのが科学的知見を持つ者の態度ではないのだろうか。「我々は客観的事実を把握した」というのは烏滸(おこ)がましいことであり、ある小さなフレーム(枠組み)で限定して考えると、このように予想することができる程度の次元なのである。このように考えてくると、現代社会は「信じること」から遠ざかった時代どころか、「信じること」と相即不離で生きている時代と言えるのである。

 さて、精神科医のV・フランクルが印象深い逸話を残している。年老いた医師がやって来て、「自分は妻に先立たれて、その悲しみから立ち直れない」と訴える。フランクルはじっと聴いていて、やがて語りかける。「もし亡くなったのが奥さんではなく、あなただとしたらどうでしょう。今、あなたが嘗(な)めている苦しみを奥さんが味わっているとしたら、あなたはそれでもいいですか」。そうすると、その老医師は、「いや、それは妻が悲しむだろう。とてもそういうことはさせたくない」と答える。「そうでしょう。そうだとすれば、あなたは奥様が苦しみに遭うことから救っているのですよ」とフランクルは語るのである。やがて、この老医師は立ち直っていく。ここにも「信じること」が横たわっている。

 (かとう・たかし)