欧米列強こそ対外進出の先駆
“強い者勝ち”の国際社会
一方的な日本悪者論は誤り
史上に名高い「阿片(あへん)戦争(1840~42年)」は、当時は清朝が支配していた中国と、中国に阿片を輸出していたイギリスとの戦いである。この当時、イギリスでは茶を飲む習慣が広がって、大量の茶の葉を中国から輸入しており、その代金として中国に対する銀の支払いが増大していた。
そこでイギリス側が目を付けたのが、中国の社会に阿片を吸引する悪習が広がっていた事実で、これに着目したイギリス(イギリスの東インド会社や商人)はインドで生産した阿片の対中国輸出に力を入れた。もとより阿片の吸引は中国自身でも禁止の対象だったが禁止はいわば形だけ、イギリスの乗ずるところとなった。そこで清朝廷が輸入禁止に本格的に取り組むことにし、林則徐という優れた人物を欽差(きんさ)大臣(特命の大臣)に任じて、国内での阿片吸引の悪習禁止ならびに輸入停止の措置に当たらせることにした。林則徐の対応は徹底していた。イギリス商人が中国に売り込む阿片を片っ端から没収し、大量の阿片を海中に投棄させた。これにイギリスが猛反発して軍を出動させ、世にいう阿片戦争になった。
戦いはイギリスの一方的な勝利に終わり、中国は多額の賠償金を支払うとともに、香港をイギリスに割譲するのやむなきに至った。いわゆる「無理が通れば道理引っ込む」の類いで、およそ戦争という戦争は戦力に勝る側が勝ち、道理がどうあろうと弱い側が敗れるに決まっていることの、これは典型例である。阿片戦争での敗北をきっかけに、中国は市場拡大を目指す欧米列強の利権獲得争いの場になっていく。日清戦争(94~95年)での敗北は、それに拍車を掛けた。
フィリピンがスペインの植民地になったのは、これより早く16世紀末からである。フィリピンという国名自体、当時のスペイン国王が王子の名フィリペに因んで付けたと史書にある。もっとも、スペインの植民地支配は、東アジアへの支配圏拡大を意図した当時から300年余り後に終止符を打つ。米国との戦争にスペインが敗れ、フィリピンは一度は独立国になった。が、アジアへの進出で欧州列強より出遅れた米国がフィリピンを植民地にするに及んで、独立国の地位を再び失うことになる。
阿片戦争によるイギリスの中国侵略やスペインと米国によるフィリピン植民地支配は、もとより単なる例にとどまる。経済の資本主義段階移行を背景に近代化を達成した欧州列強のアジアとアフリカ侵略ならびに手当たり次第の植民地化は数多い。インド、ミャンマー(ビルマ)、シンガポールを含むマレー半島、パキスタン(バングラデシュを含む)はイギリスの、インドシナ半島のタイを除く各地の多くはフランスの、インドネシアはオランダの、南洋の島国は主としてドイツのそれぞれ支配下に入っていった。アジアで独立国としての地位を確保し得ていたのは、日本とタイ(シャム)ぐらいだった。アフリカも、もちろん欧州列強の支配地域争奪戦の場だった。
例えば筆者が世界銀行の招待で視察したアフリカのカメルーンは19世紀末にドイツ領になり、第1次世界大戦中に英仏両国が分割占領、第2次大戦後に独立したが、筆者が視察した1971年当時にはフランス語圏とドイツ語圏に分かれており、仏独の両国語がともに公用語だった。
太平洋を隔てて南北の米大陸やオーストラリア、ニュージーランドがある。が、これらも、もとはといえば、イギリスほかのヨーロッパ各国がそれぞれの土地の原住民から奪い取ったものである。近代化で英仏ほかの各国に立ち遅れたロシアも領土拡張のためアジアに進出し、樺太やアリューシャン列島から北米のアラスカにまで手を伸ばしたが、アラスカは後に金銭で米国に売却した。
ロシアといえば、日清戦争で勝った日本が清国から割譲を得た(1895年)遼東半島を、独仏両国を抱き込んでの三国干渉で中国に返還させ、その後、ここを自国の租借地にして東アジアでの勢力拡大の根拠地にする“ずるさ”を露骨に示した。日本国民の猛反発は必然の成り行きだった。西欧諸国に比べて近代化に立ち遅れ、アジアやアフリカでの領土拡大競争でも機に乗り損ねたことで、ロシアの支配領域増加拡張意欲は強まったとみて間違いない。
以上、世界近代史に関心のある方ならご存じのことを幾つか述べたのは、国際社会での争いに正義・不正義は通用せず、簡単に言えば“強い者勝ち”であることを強調したかったから。だから、第2次大戦後の連合国による戦争裁判も、実質は敗戦国の戦争主導者に対する連合国側の裁判の名による報復でしかない、と筆者は確信している。
戦後70年の昨年、日本は改めて首相談話で詫(わ)びた。それはそれでよかろう。だが、大戦争でアジア各国に多大の損失を及ぼしたとはいえ、各国独立の契機をつくったことに卑下する必要は全くない―そう考える。
(おぜき・みちのぶ)






