台風から逃れられぬ日本

拓殖大学地方政治行政研究所附属防災教育研究センター副センター長 濱口 和久

濱口 和久地球温暖化で巨大化

「三大台風」上回る被害も

 日本列島は古くから「台風銀座」と呼ばれ、毎年、数多くの台風が、上陸もしくは接近しては、大きな被害をもたらしてきた。8月には台風7号、9号、10号、11号が日本列島に相次ぎ襲来し、特に9号、10号は大きな爪痕を残した。台風は北緯5度から45度、東経100度から180度の範囲で起き、この範囲しか通過しない。台風は極めて限定された地域での気象現象であり、日本列島は台風の通り道に位置している。

 日本史上最大の被害をもたらした台風は、文政11(1828)年のシーボルト台風(死者・行方不明者約1万9000人)だ。

 明治維新以降で見ると、台風被害は昭和に入ってからが特にひどい。昭和9(1934)年の室戸台風(死者・行方不明者3036人)、同20年の枕崎台風(死者・行方不明者3756人)、同34年の伊勢湾台風(死者・行方不明者5098人)と続き、「昭和の三大台風」と呼ばれている。これら以外にも昭和17年の周防灘台風(死者・行方不明者1158人)、同22年のカスリーン台風(死者・行方不明者1930人)、同29年の洞爺丸台風(死者・行方不明者1761人)などが大きな被害をもたらした台風である。

 ちなみに、気象情報は軍事作戦に影響を及ぼすとして、大東亜戦争中は機密扱いとされた。開戦後、国民向けの天気予報が全て中止されたことが、周防灘台風で1000人を超える犠牲者を出す一因ともなった。また、敗戦後、占領下での気象業務は、連合国軍総司令部(GHQ)の管理の下に置かれた。米国の慣例に従い、英語の女性の名前が付けられたのがカスリーン台風である。

 昭和9年9月21日に高知県室戸岬に上陸した「室戸台風」は、阪神地区に再上陸すると、大きな被害をもたらした。

 大阪では台風の上陸からわずか30分で、高潮によって2㍍を超える海水が流入する。またたくまに大坂城(大阪市中央区)付近にまで海水が押し寄せると、町中が水浸しの状態となった。大阪の人たちは、急激な水位の上昇により避難もままならず、大阪湾一帯で推定1900人以上が溺死。日本最古の寺院の一つとされている四天王寺では、五重塔と仁王門が全壊し、金堂も大きく破損した。

 学校施設の被害も甚大だった。耐震構造でない木造校舎の多くが倒壊し、児童・生徒や教職員合わせて893人が犠牲となった。京都の両洋中学校では校舎が倒壊した後、薬品が自然発火。生き埋めになっていた生徒や教職員が焼死するという痛ましい事故も起こっている。

 大東亜戦争の敗戦から1カ月後の昭和20年9月17日、鹿児島県枕崎市に上陸した「枕崎台風」は、米国の原爆投下により被災した広島県に甚大な被害をもたらした。広島市と呉市周辺だけで2012人が犠牲となる。

 広島県内では、降り続く雨により、傾斜地の至る所で「山津波」と呼ばれる土石流が起きた。戦時中、石油の不足から、松の木の油を代用として使用するために、根こそぎ山林を伐採。はげ山になったことで、斜面が崩壊しやすい状態になり、土石流が起きたと考えられている。また、暴風雨と堤防の決壊や河川の氾濫により、洪水がバラック小屋を襲った。敗戦直後の混乱の中、広島では防災体制の不備や防災情報を市民に伝える通信手段がなかったことも、被害を大きくしたといわれている。

 昭和34年9月26日、和歌山県潮岬に上陸した「伊勢湾台風」は、伊勢湾奥の低平地を泥の海に変え、東海地方を中心に中国・四国地方から北海道までの広い範囲にわたって大きな被害をもたらした。

 伊勢湾周辺の被害が大きかったのには幾つかの要因があった。台風の通過時刻と伊勢湾の満潮が重なったことが挙げられる。名古屋地方気象台の予想では、高潮は2㍍と予想されていたが、実際には名古屋港で最高5・3㍍を記録し、堤防を超えて海水が海抜ゼロメートル以下の低平地に流れ込んだ。さらに、名古屋港の貯木場にあった大量の木材が、海水と一緒に市街地に押し寄せたことにより、犠牲者の8割以上が高潮で亡くなっている。

 台風が上陸する午後6時頃、強風により名古屋市内は停電する。電池式ラジオであれば停電しても受信できたが、当時の主流は電気を使った真空管ラジオだったため、停電と同時に、多くの家庭で台風に関する最新の情報を入手できなかったことも被害を大きくした。さらに、高潮災害の危険地帯でありながら、市民の防災意識の欠如、行政の対応の遅れや、高潮を防ぐための堤防の不備などがある。

 伊勢湾台風の被害を契機として、2年後の昭和36年11月、戦後の防災対策の転換点となる「災害対策基本法」が制定された。

 平成に入ってから台風による犠牲者数は大幅に減った。だが、近年の台風は地球温暖化の影響などにより、巨大化していることを考えれば、今後、昭和の三大台風以上の犠牲者が日本列島のどこで出てもおかしくないのだ。

 日本人は台風を甘くみるべきではない。台風から逃げることはできないのだから。

(はまぐち・かずひさ)