冷静な調査で「歴史認識」を
NPO法人修学院院長・アジア太平洋交流学会会長 久保田 信之
科学的思考法で事実に
感情刺激する物語にあらず
隣国の中国や韓国で「怒れる市民による反日暴動」を世界に宣伝されたことがあるが、今の日本人にしてみれば「遠い過去の話」である。しかし、「加害者である日本は忘れられても被害者であるわれわれは忘れられない」と、時に激しく執拗に要求してくるこの「歴史問題」に、お人よしの日本人は、辟易しながら悩み続けているのが現状であろう。
現在は、「歴史問題」は一時に比べると鎮静化しているが、中国、北朝鮮、韓国はいつまた「独自の歴史認識」を武器に日本に攻勢を掛けてくるか分からない。以前より落ち着いた今こそ、冷静に、少し次元を高めた学問研究のレベルから「歴史とは何か」「歴史認識とは何か」を考え、解決策を練りたいものだ。
「事実認識」と「価値認識」は、理論上は「別物」である。混同しないよう、冷静に対処すべきであることを、哲学は、われわれに教えている。
いわゆる近代的学問研究は、客観性を尊び、没価値的であって、資料(データー)に忠実に結論を導き出すことが求められてきた。こちらが得するためとか、相手を陥れるためといった主観的な偏見や思い込み、あるいは情緒的な価値観・人生観に支配されないこと、閉鎖的で排他的・独善的な論理展開を厳しく戒めたものであるということができよう。
周知のように、自然現象を対象とする「自然科学」においては、この常識は既に確立しているから、自然科学の研究では、客観性を求める。ゆえに綿密で論理の飛躍がなく、憶測や思い込みを可能な限り排除しており、その成果は人類の共有財産になるのである。
しかし、残念なことに、「自然科学と人文科学とは別だ」と端から決め込んでしまうと、人間生活に直結した課題に取り組む際に、「事実」を厳密に幅広く集積して、その中から徐々に結論を導き出すという、いわゆる「科学的思考法」を放棄してしまうように思えてならない。
例えば、人間の歩みは人類の軌跡が「歴史」だし、歴史は「事実」によって構成されている。しかし、この「歴史的事実」を生み出したのは、独特の感情をもった人間だし、1回限りのもので、繰り返し出現する性質のものではない。またこの「事実」は、背後に数え切れない様々な物理的要因、さらには客観化できない心理的な要因も存在する。であるから、自然科学が研究対象とする「事実」とは本質的に異なるのだとして、「科学的思考法の外」に置こうとする主張も、確かにある。
このような論者は、「学問対象としての歴史」と「歴史小説、歴史物語」との厳密な区別ができない。彼らは、「徹底した因子分析」と「飛躍のない厳密な論理展開」を旨とする「科学的思考」よりも、「通俗的で安直な情緒」、さらには「憎しみや嫉妬」といった誰もが持っている感情を刺激するフィクションに魅了されてしまうようだ。
権力によって情報が統制され、時に「捏造」できる国がある一方、思想信条の自由や表現の自由が保障されて余りある現在の日本では洪水のような情報にさらされているから、「厳密な論理展開」をする必要性すら忘れた「考えない人間」が育っているようだ。
現代人の多くは、「事実」の背後にある多様性を見ようとはせずに、わずかな事実・情報に流されて、憎しみ・怒りといった激しい「感情・情念」に翻弄されているのではあるまいか。
長い歴史を視野に入れた「幅広いデーター」ではなく「感情・情念」に合う「情報」を拾い集めれば、さらに、激しい感情を掻き立てることになる。これは「厳密な科学的思考」とはいえないものだ。
「歴史とは、過去から未来に向かって、滔滔と流れる大河」だ。様々な事実からなっているのだ。この「大河」の中に存在している「小さな石」は、過去や未来との繋がりのない「秘話」に過ぎない。だがしかし、この秘話は、感情を高ぶらせる魔力を持っている。
この、一過性の強い感情の高ぶりを鎮めて、真に永続性のある、「未来を共有できる関係」を構築しようとするならば、「全体的な脈絡」を丹念に追い求めなければならないのだ。
とはいえ、「全体性の把握」を具体的になすことは、人間には不可能であるのかもしれない。
ある種の「主観的な価値観」に支配されることなく「多様な事実の発掘」に努め、「事実」を成り立たせている「多様な要素」を、科学的な冷徹な思考方法によって「掬い取る」努力が、歴史の科学的研究においては求められるのだ。
これは、個人の限界を超える道だ。「多様な事実と出会う」ためには、冷徹な科学的研究方法に秀でた「多様な立場、価値観をもった歴史学者」であるべきだろう。収集したデーターから導き出される「歴史」認識は、かくかく、しかじかである、別のデーターからは「別の歴史が成立する」と言い切れるような真摯で、冷静な思考がなしうる「科学的歴史研究者」による共同研究が待たれる。
(くぼた・のぶゆき)