信長像を解明した秋山駿

菊田 均文芸評論家 菊田 均

「天才」の切り口で

自分を使い果たす生き様

 古今東西、天才と呼ばれる人物はそこそこいるが、日本史上最大の天才となれば、織田信長ということになりそうだ。

 「戦国の三英雄」にしても、豊臣秀吉は信長に学んだであろうし、徳川家康は、信長、秀吉に学んだ。家康の場合、加えて書物に学ぶことも多かったようだ。ところが、秀吉、家康が学んだ当の相手である信長は、他人から学んだ形跡がない。自分が見た現実からじかに学んだとしか考えられない。天才であるゆえんだ。

 当代人気の坂本龍馬は、幕末維新の歴史の中で薩長同盟を実現した。歴史上大きな功績には違いないが、薩長同盟は政治戦略に留まる。信長に比べれば、龍馬の存在はよほど小さい。

 秀吉は「日本史上最高のサラリーマン」と言われ、家康は「江戸幕府の創設者」と言われる。どちらも偉大だが、そうした言い方で要約することができる存在だったとも言える。源義経にしても、「悲劇の英雄」というくくりで理解が可能だ。「判官びいき」もそこから生まれる。

 だが、信長だけは、そうした言い方が通用しない。どこかはみ出してしまうのだ。仕方がないので、人は信長を「天才」と呼ぶ。

 信長はわかりにくい。どういう人物なのか、これといった手掛かりがない。明智光秀のように出自が謎であるわけではない。信長という人間そのものが謎なのだ。だから我々は、彼を悪人とか虐殺者とか呼ぶ。「よくわからないが、悪い奴には違いない」という風に。だが、それらは信長の一面の真実を伝えるものに留まる。

 「信長のわかりにくさ」を、天才という切り口で解明しようとしたのが、秋山駿『信長』(新潮社刊)だ。20年前の作品で、秋山は2013年に亡くなっている。

 主に『信長(しんちょう)公記』(太田牛一〈ぎゅういち〉著、1600年ごろ成立)を史料としながら、「信長は天才だ」という一言を著者は繰り返し語っている。どう天才なのか、なぜ彼は天才と言えるのか?、それがこの本のテーマだ。

 信長は、いつでもどこでも、周囲に新しい世界を作り出してしまう、と秋山は言う。信長自身が新しい。なぜか若いころから新しいのだ。「新しい人間にならなければならない」などと信長が考えたわけではない。普通に行動していたら、周囲から「奇妙な奴」と言われた。十代後半の信長は、「大うつけ」と呼ばれた。だれも信長のことがわからないから、とりあえずそう言うしかなかったのだろう。「信長は悪い奴」と同じパターンだ。

 秋山は、信長が天才だったことを示す一例として、「天下」を挙げている。桶狭間の戦いの8年後、34歳の信長は、室町幕府最後の将軍足利義昭を奉じて京都に入った。この段階で信長には天下という認識があった。不思議なことに、戦国大名として先輩の武田信玄であれ上杉謙信であれ、信長以外のどの実力者も、天下という構想はなかった。

 遅くともこの時期以後の信長は、「この天下をどうしたらいいのか?」という課題に憑りつかれた。「だから自分はこのように行動する」という目的意識も生まれた。普通の戦国大名をはるかに超えた存在だったのだ。

 「俺について来い」とは言うが、「こういう理由があるからだ」とは言わない。説明責任などは全くない。黙ってついて行くか、反逆を企てるか、逃げるか、選択肢は限られている。信長のような人物を昨今、「自己中」と言うが、信長は究極の自己中だった。

 信長とは付き合いの長い家来たちも、信長の本心がわからない。「急に気が変わる」「短気」「怖い」ぐらいしかわからない。秀吉は、信長の本心はわからないながらも、持ち前の「空気読み」で何とか耐えて来た。これはこれで大変な才能だったが、明智光秀のような真面目男は、最後は耐えることができなくなった。

 信長は、「戦争はまだまだ終わっていない」と考える。信長の言う「天下布武」は、「天下統一」ではない(天下統一は秀吉が達成した)。信長は49歳で暗殺されてしまったので、どの段階が天下布武の完成なのかは永久にわからないのだが、亡くなった1582年の段階で戦争(戦国時代)が終わったと考えていなかったことだけは確かだ。

 信長が、天下布武の終了時期をあらかじめ漠然とでも、秀吉や光秀あたりに明かしていれば、本能寺の変はなかった可能性がある。光秀は、武田家滅亡(本能寺の変の3カ月前)時点で、長かった戦争の時代が事実上終わったと考えたのだろう。事実、天下布武達成の道のりも、それほど遠くはなかったのではないか。「部下に説明してもどうせわからない」という天才特有の孤独感も、本能寺の変の一因だったと思われる。

 この本の終りの部分で秋山は、「天才は自分を蕩尽し尽くす。自己保存の発想はない」というニーチェの言葉を引用している。蕩尽とは、湯水のように使い果たすこと。自分がすり潰されるほどに生き抜いてそして死んで行く、というこの発想は、非凡ではあれ天才ではなかった光秀のような人物にとっては、理解の外にあったのではあるまいか。

 無論我々は、その光秀によって信長が、いかにも天才らしい最期を迎えたことを知っている。

(きくた・ひとし)