野口英世と恩師フレクスナー

佐藤 唯行獨協大学教授 佐藤 唯行

渡米後の苦労が呼んだ縁

手を差し伸べたユダヤ系教授

 千円札の図案で馴染み深い野口英世(1876~1926)。生涯にわたる恩師がユダヤ人であった事実を知る者は少ない。その名はサイモン・フレクスナー(1863~1946)。野口が「世界三大細菌学者」と讃えられるまでに出世できたのもフレクスナーのお蔭と言ってよい。

 両者の邂逅(かいこう)は1899年4月、野口が助手補を務めていた通称「北里伝染病研究所」に米ジョンズ・ホプキンズ大学医学部教授、フレクスナーが視察に訪れた時のことであった。明治日本における最良の出世梯(はしご)は欧米留学であった。帝大出のエリートが幅をきかす「北里研究所」で、旧制中学さえ卒業していない自分に留学のチャンスはまわってこないと諦めかけていた矢先、俄(にわか)通訳としてフレクスナー教授との間に出来た僅かな知遇を野口は見逃さなかった。

 渡米のための片道切符を工面するべく1年半を費やした後、1900年末、野口はペンシルヴェニア大学へ移籍していた同教授のもとに突然転がり込む。正式な受け入れを約束した覚えの無いフレクスナー教授。野口の無鉄砲ぶりに魂消(たまげ)たが、結局、窮状をみかねてポケットマネーから当座の生活費を工面してやり、自身の病理学教室へ受け入れてやったのだ。けれど正規の助手ポストは満員で空席が無い。

 そこで教授がみつけてくれたのが蛇毒研究に欠かせぬガラガラ蛇の毒液採取の仕事だ。生きてる蛇の頭をつかみ、口をこじあけ、毒腺を絞り、液を小瓶に垂らしこませるのだ。エリート白人がやりたがらぬ危険な汚れ仕事にも音をあげぬ野口の仕事ぶりは教授の目をひくところとなった。また、250ページ分の研究文献抄訳を命じられるや、睡眠3時間で図書館に籠り続け、短期間で完成させてしまうユダヤ人顔負けの勤勉ぶりにも教授は惚れ込んでいった。

 けれど、そもそもフレクスナー教授は、この厚かましい「押しかけ弟子」を追い返すことなく、何故面倒をみてやる気になったのか。

 それは自分たちユダヤ移民家庭出身者が辿った苦労を野口の人生に重ねあわせてみることができたからではなかろうか。彼の両親はボヘミアから渡米後、苦しい行商生活を経てケンタッキー州のルイスビルに店を構えた商人であった。フレクスナー自身も米医学界のユダヤ人差別を乗り越えつつキャリアを築いてきた苦労人であった。

 実は彼が1899年に正教授に採用される以前、ペンシルヴェニア大学医学部にはユダヤ人の正教授はひとりも任用されていなかったのだ。更に、前任校のジョンズ・ホプキンズ大学で彼が正教授のポストを得られたのも偶然ではない。当時、アイビーリーグの多くの大学が教授採用に際して、候補者の学問的業績よりも民族・宗教的出自を重視していたのに対し、業績主義に則った人事を行う数少ない「研究重点大学」であったからである。「自由と民主主義の国」アメリカにおいても実はユダヤ人差別は根強かったのだ。

 ともあれフレクスナーは野口にとり理想の上司であった。日本では開業医試験に合格しただけの研究歴など殆ど無かった野口を一人前の研究者に育てあげたばかりではない。正規助手に昇進後、野口の個人研究費はペンシルヴェニア大学医学部の総予算(職員給与も含む)の中で、全体の2%に達する程優遇されていたが、これは学内行政者として政治力を発揮できたフレクスナー教授の働きかけによる。

 この恩には野口も大層感謝し、1907年の書簡の中で「フレクスナー先生なしには私の研究成果はあり得なかった」と記し、生涯、忠誠心を失わなかった。1903年、フレクスナーは新設のロックフェラー医学研究所の所長職へ招かれ、弟子の野口も移籍を許された。野口はここでトントン拍子に出世してゆく。

 大富豪ロックフェラー家が私財を投じて開設したこの研究所の設立目的は唯ひとつ。独占資本家ロックフェラー家の横暴ぶりに対する世間の悪評を帳消しにするために、同家による「人類救済の英雄的事業」を世に知らしめることだ。野口が携わった人類を疫病から救う細菌研究こそ、当時としては人々の喝采を浴びる最も英雄的な事業であったと言えよう。だからスポンサーのロックフェラー家にとっても、普通のアメリカ人研究者よりも、異人野口を傭い、世間の耳目をひく大発見をやらせた方が、より大きなニュースヴァリュー効果が期待できるという訳だ。

 米西海岸で移民排斥の対象とされていた日本人も東海岸では「稀少種」として人々の好奇心をそそったからである。悪疫が猛威をふるう南米、アフリカの奥地で伝染病撲滅の先兵として、危険に身を曝(さら)し続けたのも野口個人の功名心ばかりでなく、ロックフェラー家の思惑を無視できなかったという理由もあるはずだ。

 さて、「ユダヤの恩義」については野口自身も明確にそれを自覚していたようだ。ロックフェラー研究所を訪れた日本人農学博士、雨宮育作との歓談の中で野口は「日本人はユダヤ人の恩義を忘れてはいかぬ。ただ学界におけるばかりでなく、国家の運命を賭して戦った日露戦争も財界ユダヤ人の御蔭を蒙ったことが甚だ多い」と語っているからである。

(さとう・ただゆき)