人生の最期をどう迎えるか

根本 和雄メンタルヘルスカウンセラー 根本 和雄

天寿全うが自然の摂理

大切な看取りを支える文化

 超高齢社会を迎えた我が国は、いまや、迫り来る「多死時代」を迎えようとしている。現在、1年に亡くなる方は約130万人(平成26年)で、2030年頃には約160万人と増加することが明らかで、この急増する人々を、どう看取っていくかは医療者のみならず、家族をはじめ社会全体の問題でもある。

 これまでは、死は極めて個人的な問題とされて来たが、これからは「死」は社会全体の重要な問題で「死」の社会化のなかで「看取り」を支える死の文化が問われようとしているのである。

 「看取り」とは、〝延命治療をせずに、適切な医療が行われ無理なく自然の過程で死にゆく人に自然の摂理に寄り沿いながら見守るケアをすること〟ではなかろうか。そこには、「穏やかに逝く」ために心と身体の変容に寄り添う態度が大切であると思う。

 我が国では昭和30年代までは、自宅で看取ることがほとんどであり、それまでは実に8割以上が自宅で亡くなっていたのが、昭和50年(1975年)を境にして、次第に自宅から病院に変化して、いまでは8割以上の方が病院で亡くなっている。内閣府の調査によれば、最期を迎えたい場所について自宅が54・6%に対して病院(医療施設)は27・7%と答えている(2012年調べ)。

 近年、医療技術の急速な進展に伴い生死を操作することが可能になり、延命治療は本人の意思に関係なく生き続けている現状は否定できない事実である。それ故に日本人固有の死生観(死の文化)を見つめ直す必要があるのではなかろうか。特に末期にある病人への看病・看死(看取り)の在り方は極めて重要な厳(おごそ)かな出来事という他はないと思う。

 平安時代には「無常院」・「往生院」・「看病堂」と呼ばれる宗教的(仏教による)医療施設があり、臨終を重視する習慣のなかで看取りの方法として「臨終行儀」が行われていた。「臨終行儀」とは、“死にゆく人と看取る側の望ましい死への対応法”で、その最初のものは、永観2年4月に完成された源信(平安中期の天台宗の僧)の『往生要集』である。そこには、いかにすれば浄土に往生できるかという臨終を迎える人への配慮、看病ないし看死のあり方、死の作法などが述べられている。

 この看取りの作法で大事なことは“その人らしい尊厳(品位)を保ちつつ最期の生を穏やかにどう生き抜くか”ということではないかと思う。

 「臨終」とは「臨命終時(りんみょうしゅうじ)」という言葉の略で〝死を迎える直前の時期のこと〟で「命の終わりに臨む時」即ち、人生におけるラストステージの旅立ちの瞬間である。ここで重要なことは、WHO(世界保健機関)の提言である(1990年)。それは、〝人が生きることを尊重し、死を早めることも、死を遅らせることもしないで「死への過程」に敬意をはらう〟ということである。

 また、患者の権利に関するリスボン宣言(第34回世界医師会総会1981年)で「患者は尊厳のうちに死ぬ権利をもっている」と明記されている。では、「尊厳のある死」とはどのような死を意味するのであろうか。人それぞれの死生観や価値観に基づいて、自分らしく品格(dignity)を持って死を迎えるということではないかと思う。つまり〝自然に天寿を全うした死を肯定的に受け入れる〟ことではなかろうか。

 例えば、三宅島(伊豆諸島の神津島南東方にある火山島)では、お年寄りは、口から食べられなくなったら水を与えるだけ。そうすると苦しまないで静かに旅立つことができるという。自然のままに看取るという死の文化が住民の意識に根づいているという事実なのである。そこには「寿命」という自然の摂理を素直に受け入れる文化が今なお生き続けているということではなかろうか。

 三宅島では老人の最後に水だけ与えられるというが、実は高僧が最期を迎えるときも傍らに水が置いてあるという。これが草木が枯れるように逝く「自然死」なのだと思う。

 今日の医療は、急速な医療技術の進展に伴い、人間の「生」(生きること)と「死」(死すること)に積極的に介入しているように思われてならない。取り分け「死」の問題については、限りなく延命治療が続けられ死亡直前の最期の瞬間まで医療行為が続けられている。そこには、何もしないことは医療の敗北になるという意識が根づよく医療者の意識のなかに潜んでいるのではないかと思う。

 我が国の伝統文化、とりわけ死の文化のなかには〝天寿を全うして死を肯定的に受け入れる〟という看取りの文化が潜在的にあったのではなかろうか。それが「往生する」(極楽浄土に生まれ変わる)という言葉に秘められていた。かつて、僧侶で歌人の西行法師(1118~1190)が〝願わくは/花のしたにて/ 春死なむ/その如月の望月の頃〟と詠んだように、自分の死をしっかりと見据えていたと思うのである。

 人生最期のとき、即ち人生の長い旅路を終えるとき、さまざまな想いがその人の物語り(ナラティブ)となって走馬灯のようにかけ巡るそのとき、その人に寄り添って、しっかりと看取ることのできる医療を切に願うものである。人はその国の文化のなかで死を迎え、看取りは医療における最も大事なアート(Art)ではなかろうか。

(ねもと・かずお)