若者のデモを称揚する無責任
大人が煽る安保法制反対
教養で政治参加の作法教えよ
安全保障関連法案(19日成立)審議の過程で世の耳目を集めたのは、国会議事堂周辺で開かれた法案反対デモに多く若者達が加わった風景であったけれども、興味深いのは、その風景に寄せられた大人世代の反応であろう。
たとえば、『朝日新聞』(電子版/9月4日配信)は、「安保若者デモ『大きな希望』 寂聴さんと山田洋次監督、対談」と題して、瀬戸内寂聴(僧侶/作家)と山田洋次(映画監督)の対談を紹介している。
対談中、瀬戸内は、「もしもの時には若い人たちが連れて行かれる。若い人たちにしっかりしてもらうには、どうしたらいいかわからなかったが(学生団体の)SEALDs(シールズ)を中心に若い人たちが立ち上がってくれたのは素晴らしい」と語り、山田は「60年安保闘争」と比較した上で、「今はあの時と時代は違うが、若者たちの活動はとても大きな希望です」と述べている。
この瀬戸内と山田の対談を一つの典型として、安保法制反対を唱える言説は、エリック・ホッファー(哲学者)が著書『情熱的な精神状態』に残した次の言葉を思い起こさせる。
「(権力に)異議を申し立てている言論人が、自分自身のことを、暴政にしいたげられて傷つけられた者の擁護者であるとどのように考えても、きわめてわずかの例外を除けば、彼を動かしている不満は私事に関する個人的なものである。言論人が持っている同情は、ふつう自分が獲得していたかもしれない権力への憎悪から生まれるのである」。
このホッファーの言葉は、「権力の横暴」に抗うという姿勢で論陣を張る人々の心理を適切に評している。瀬戸内や山田のように相応の名を挙げた人士を除けば、「権力の横暴」批判に走る人々の心理には、実は「権力への渇望」が反映されている。
安保法制反対デモに参加する若者の多くは、こうした「権力への渇望」に駆られた大人達に煽られているのだといえる。そして、ホッファーは、人々が「情熱的な精神状態」の下で何かをしようとすることの危うさを凝視したけれども、次のような言葉をも残している。
「情熱の大半には、自己からの逃避がひそんでいる。何かを情熱的に追求する者は、総て逃亡者に似た特徴をもっている」。「プロパガンダが人をだますことはない。人が自分をだますのを助けるだけである」。
現下の安保法制を「戦争法案」と呼ぶのは、「誰かが誰かをだますのを助ける『プロパガンダ』」の類であろうけれども、件の安保法制反対デモに参加した若者達の中には、「自己から逃げるために、嬉々として、だまされている」向きがあるということか。
無論、此度の選挙法改正により選挙権付与年齢が18歳に引き下げられることを考えれば、若者達が政治に関心を持つことは大事である。政治に対する関心は、民主主義体制を成り立たせる一つの基盤である。
ただし、「政治に関心を持つ」ということと「デモや選挙立候補という体裁で政治に参加する」ということの間には、越え難い断層があるのだし、その「政治に参加する」にも相応の「作法」を踏まえなければならないのだということは、強調されなければなるまい。
そして、「政治に参加する『作法』」を考える上で示唆深いのが、ホッファーの次の言葉であろう。
「平衡感覚がなければ、よい趣味も、真の知性も、おそらく道徳的誠実さもありえない」。
政治は、「異質な他者」と関係を紡ぐ営みである以上、そこで要請されるのは、人間社会の「複雑さ」への理解であり、ホッファーが呼ぶところの「平衡感覚」である。
マックス・ウェーバーが戯曲『ファウスト』に登場する「気をつけろ、悪魔は年取っている。だから、悪魔を理解するためには、お前も年取っていなければならぬ」という台詞を引きながら、「教養」の意義を強調したのも、時代や国情は異なるとはいえ、その説こうとした問題意識は、ホッファーのものと通底していよう。
今、安保法制反対デモに参加した若者に説くべきは、「そんなところで時間を潰していないで、色々な書を読み色々な見聞を広めながら、幅広い『教養』と確かな『平衡感覚』を身に付けよ」ということであろう。こうしたことが成るためには、相応の時間を費やした上での「思考の蓄積」が要る。前に触れた「政治に参加する『作法』」を支えるのは、そうした「思考の蓄積」に他ならない。
故に、前に触れた瀬戸内や山田の対談に示されるように、そうした戒めの言葉を披露するのではなく若者の「生煮えの政治参加」を称揚するが如き言説は、それ自体は誠に無責任なものである。それは、民主主義体制における「成熟」には決して結び付かない。
(敬称略)
(さくらだ・じゅん)