戦後70年に宿る精神的遺産

小林 道憲哲学者 小林 道憲

インドネシア識者が評価

民族独立運動に日本の貢献

 2010年、85歳で亡くなられたインドネシアのアリフィン・ベイ氏は、第2次大戦中、日本政府が東南アジアから招いた南方特別留学生として来日、広島文理大学に留学中、被爆。その後、日本に約30年間滞在、筑波大学、神田外語大学の教授を務めた後、離日。マレーシアのマラヤ大学教授、インドネシアのナショナル大学日本研究センター所長などを務められた。親日派の国際政治学者であった。このベイ氏が、その著『魂を失ったニッポン』の中で、次のように言っている。

 「日本軍に占領された国々にとって、第2次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。日本が戦争に敗けて日本の軍隊が引きあげた後、アジア諸国に残っていたのは他ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第2次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。…」

 実際、オランダによって植民地化されていたインドネシアでは、第2次大戦中、アジアの解放とアジア人の連帯を呼びかける日本に協力し、オランダと対抗しようという動きが見られた。しかも、1942年に上陸してきた日本軍は、インドネシアの民族主義に理解を示し、彼らを勇気づけた。国号はインドネシアに、バタビアはジャカルタに改称され、オランダ政庁によって投獄されていたスカルノやハッタが釈放され、彼らをはじめインドネシア人官吏が重用され、公用語はインドネシア語が使用され、これは急速に普及した。

 日本の軍政は、また、インドネシア社会に近代的組織原理を持ち込んだ。教育機関が充実され、村落が再編成され、青年団組織などもつくられ、軍事訓練が重視され、武器の供与も行われた。特に、この軍事訓練を通して祖国防衛義勇軍(PETA)が形成され、これは後のインドネシア国軍の原型となった。この点で、日本の軍政は、インドネシアの社会のより一層の組織化、近代化を推し進めたと言えるであろう。

 日本軍によって釈放されたスカルノやハッタは、この日本軍政に協力する代償として、独立への要求を強めた。1944年、日本は将来のインドネシアの独立を約束したので、インドネシア人の独立への熱望は強まった。翌年、独立準備調査会が発足、政体、国家組織、宗教問題、国民、領域、憲法草案などについて論じられた。インドネシア側委員の熱意は日本側を圧倒、さらに、日本軍が組織した祖国防衛義勇軍、青年団、その他が、来たるべき独立を目指して宣伝、行動に乗り出した。

 3年余りに過ぎなかったが、日本の占領はインドネシアをはじめ、東南アジアにとって、その衝撃は大きかった。日本の支配も作戦遂行上厳格を極めたが、これによって、インドネシアは、オランダの植民地状態から解放された。日本が敗退して後、オランダ軍は再上陸してきたが、インドネシア人は民族意識に目覚めていたから、彼らは白い目で見られた。ヨーロッパ人不敗の神話は崩れていたのである。1945年、すでに、インドネシア共和国は、スカルノを中心に独立を宣言していた。

 終戦前後の解放されたインドネシア青年のエネルギーは凄(すさ)まじいものがあった。祖国防衛義勇軍、ジャワ奉公会、青年団など、日本が行った青年の組織化と訓練は、大きな活力となっていた。なるほど、義勇軍は連合軍によって解散させられた。しかし、彼らはそれぞれ郷里に帰って若者を組織した。連合軍に降伏した日本軍司令部には、インドネシア人からの武器引き渡しの問い合わせが殺到し、インドネシア人と連合軍との武力衝突がしばしば起こった。

 これに対し、インドネシア人は勇敢に戦い、日本軍有志も多数残ってこの独立戦争に参加した。オランダ政府は対日協力者スカルノ政権を認めなかったが、副大統領ハッタは、総選挙を行って民意を代表する政権を作るなどの内容をもつ「ハッタ宣言」を出し、様々な政党が結成され始めた。オランダは、これに対して、たびたび武力で弾圧したために、他の連合国、アジア各国が批難、オランダは撤退、1950年、インドネシアは完全独立した。

 インドネシアの近代国家としての独立、つまり、ヨーロッパ勢力からの自立は、結局、日本がオランダを駆逐した後、日本が自滅したことによって果たされたことになる。

 今年は、第2次大戦終結70年になる。第2次大戦は、日本にとっては、日本の植民地主義的進出であったとともに、同時に、それは、欧米列強への反植民地主義的行動でもあった。それは矛盾なのだが、矛盾のない歴史はない。われわれは矛盾を生きていくしかない。

(こばやし・みちのり)