医療観に「いのちの物語性」
人の願いや納得に価値
生物的な人間理解から転換
半年ほど前のことだが、とても印象深い映画を観た。胎内記憶を持つ子どもたちを丁寧に取材してドキュメンタリー風にまとめた「かみさまとのやくそく ―胎内記憶を語る子どもたち―」という映画である。
誕生以前や胎内の記憶を持つ子どもたちが異口同音に語っていたのは、自分は母親を選んで生まれてきたということであった。また、「お母さんを守るために生まれてきた」とか、別の子どもは「過去の過ちを取り返すために生まれてきた」と語っていて驚いた。その誠実で屈託のない表情や、登場したのが幼児や小学生という年齢であることを考えると、彼らは真実を語っていると直感した。この映画を通じて、人の誕生の神秘と「いのちの物語性」ということを改めて気づかされた次第である。
このような「いのちの物語性」という智慧(ちえ)が、人の誕生時にだけ語られるのではなく、最近ではターミナルケアを中心にして医療の場でも再認識されていることにも目を向ける必要がある。ここ20年ほどのことだが、患者を単に「生物的ないのち」と見なすのではなく、「物語られるいのち」の存在であると捉えることが共通理解となりつつある。
特に、末期ガンなどの患者にとっては、数多くのチューブに繋(つな)がれ、副作用に強い抗がん剤に呻(うめ)きながら、その結果として1週間いのちが長らえられる「生物的ないのち」の価値よりも、苦痛を十分に緩和して、その人の願いや納得を大切にする生き方こそが何より重要なのだという医療観への転換が広がっている。それこそが「物語られるいのち」の内実である。
それは、ある患者にとっては、まだ途中になっている絵画作品に全精力を傾注して仕上げることかもしれないし、ある患者にとっては、長い間わだかまりのあった友人と心から和解することかもしれない。それは量的いのちの次元を超えた人間の真実の欲求であろう。
いずれにしても、最初に示した胎内記憶を語る子どもたちが指し示している人の誕生の神秘といのちの物語性、或いは、ターミナルケアの現場で求められている「物語られるいのち」を土台とする医療の姿勢は、人間理解に深い問いかけをしている。つまり、人間の生と死という尊厳ある出来事を、単純に科学的知見や医学的技術で括(くく)ってしまってよいのかということへの疑問符である。
このような問いかけと軌を一にして、1998年に世界保健機関(WHO)が健康の定義について新しい提案をしていることにも注目する必要がある。それまでの定義は、「Health is a state of complete physical, mental and social well-being」(健康とは、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること)だった。それが新提案では、「Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being」つまり、「スピリチュアルとしての健康」を加えたのである。
おそらく、医療における「物語られるいのち」の重視と、WHOの「スピリチュアルの健康」は密接に結びついている。「人はパンのみにて生きるにあらず。神の口より出づる一つ一つの言葉にて生く」という聖句に典型的に示されているように、人間は大いなるいのちに命じられてこの世に呼び出され、意味ある言葉で満たされるように宿命づけられている。
嘗(かつ)てまでは、人の誕生と死は厳粛であり、神秘であり、大いなるいのちと繋がる物語とともに生きていた。しかし、近代文明150年の中で、人間に備わっていた厳粛さも神秘さも不思議さも、そして、大いなるいのちと繋がる物語さえも、すべてを科学は剥ぎとってしまったのではないだろうか。その意味で、人類の智慧をもう一度再認識しようとするうねりが、人の誕生と死の医療ステージで広がりを見せていることは大きな希望である。
最後に、アウシュビッツを生き抜いた著名な精神科医V・フランクルの言葉を紹介して終わりたい。―私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。「人生こそが問いを出し、私たちに問いを提起している」からです。「私たちは問われている存在」なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。「生きること自体」、問われていることにほかなりません―。
フランクルもまた「物語られるいのち」に生きた人間だったのではないだろうか。
(かとう・たかし)