精神的混乱の病巣をえぐる
NPO法人修学院院長・アジア太平洋交流学会会長 久保田 信之
歯止め失い「同性婚」に
つまみ食い個人主義の結果
家族の縁も切れて一人暮らしをする老若男女や自殺が増えるなど、日本社会を精神的混乱へと蝕んでいる「病巣」を、真剣に抉(えぐ)り出してみたい。私は長年、家庭裁判所の調停委員として、家族との諍(いさか)いから「本当の私を取り戻す」ために離婚を求める女性に多く会ってきた。彼女らは、妻であり母である現実の私の「向こう側」に、「自由な本当の私」があると信じているのだ。『離婚』によって慣わしだの仕来りだのを排除すれば、「元の自分」を取り戻せるというのだ。
現代の離婚増加の背景には、人間存在をインディビデュアル(individual、これ以上分けられない)として捉える西洋近代の独特の主義・主張がある。本来の自分を取り戻すため家を出て行く戯曲『人形の家』のノーラは、西洋近代の女性の象徴的存在として一世を風靡(ふうび)したことはご存知であろう。
日本語の自分とは「己の分」という意味で、自分の役割を現す言葉であった。例えば、娘から妻そして母へと変わるにつれて「己の分」は変化していくものだ。現在のように、「本当の自分」がどこかにあるとすれば、成長するにつれて「本当の自分」が押しつぶされ「本当の自分でなくなっていく」という発想なのだ。
現在の親たちは、「己の自由」を拘束されないようにと、わが子に関わることを極力避けている。そのため、子供の自我が育つ思春期に至れば、「私の手に負えない」とばかりに、真っ向から子供に対するのを避ける。まさに「親としての責任」を放棄してしまうのだ。
これに、国連で批准された「児童の権利条約」が混乱を深めている。「子どもの自主性を尊重する」とか「それぞれの人生だから干渉するな、束縛するな」とする結果、多くの若者が「中学生以下」で、社会規範や道徳観は止まった状態にいる。
もちろん、「個人主義は危険だ、子どもの自主性など認めるな」というわけではない。問題は、日本人に分かる「個人主義」を模索せず、しっかりとした概念規定をせずに「個人意思は尊重すべきだ」となされているところに問題があるのだ。残念ながら、現在の日本は、哲学があまりにも貧困だ、といわざるを得ない。
欧米から入ってきた「個人」という概念には、神から与えられた「神のごとき基本的人権」が内在しているというのが前提になる。神によってつくられた本来的な人間は、神のごとき真、善、美を持った存在と説いて来たのだ。神に直結する個人であれば、その行動は善であろう。「敬虔(けいけん)なキリスト教徒の祈り」は、「神の御旨(みむね)どおりに生きているかどうか」を神に問うための自己研鑽(けんさん)だ。ところが、そうした絶対的な基準のない日本人が「個人主義をつまみ食い」したがために、「歯止め」を失い、結婚観・人生観を混乱させる「同性婚」が認められる世の中になってしまったのだ。
詳しく論及する必要があろうが、憲法14条には「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とある。すべての人間が背負っている「人間の人間たる所以(ゆえん)」である「縦・横のつながり」を「差別要因だから外せ」という西洋の個人主義を日本人が分かるはずはないのだ。
確かに「私」の存在を否定されたらたまらない。「私」が何者かの手段に扱われては困る。しかし、視野の狭い、我欲に凝り固まった「私」を肯定し主張するだけで良いはずはない。己をなくすことではなく、己に打ち克つ自分をつくることであり、厳密な柔軟な思考ができる個人を求めることこそ、はじめて質の高い己をつくることになるのだ。これは日本の先人たちが教えてきたことなのだ。
「ご先祖様が泣いて悲しむようなことをするな」。「世間に迷惑をかけるな」。「人様に後ろ指を指されるな」。「先人が喜び、安心してくれるような世の中にするのがわれわれの任務」。このような、縦・横のつながりを豊かにすることこそ「オトナになることであり人間になる道」である、との「常識」が息づいているはずだと明確に言い切れる。
ところで、米国から占領に来たGHQ(連合国軍総司令部)による憲法を戦後70年も大事にし続け、国の主権の一つである交戦権を「永久に放棄」し、戦力は「保持しない」と謳(うた)い、現実に還元できない第9条を「世界に冠たる崇高な結論」と絶賛してやまないのが「護憲論者」だ。彼らが展開する憲法論議は、現実の諸条件から理論を構成するといった「科学的思考(帰納的思考)」を停止させてしまい、「絶対命題」にしがみつく「頑(かたく)なな宗教論争」のようになっている。話し合いが「論争」に終わり、合意点を確立できないのは、異質の人間と「共存共栄」してこなかった日本人の多くが罹(かか)っている病気かもしれない。
多様な側面を持った、あるいは多様な解釈が成り立つ「現実」を冷静に、厳密に分析しながら、少しでも「現在よりもより良い仮説」を導き出そうとしたとき、「発展性があり柔軟性がある思考」が成立するのだ。「世界に冠たる崇高な結論」を持ってしまえば、話し合いを展開すること自体を放棄しているのではないか。
(くぼた・のぶゆき)





