国家を再建した敗戦後70年
豊かな長寿社会を築く
科学技術で人類へ高く貢献
昭和16年12月8日の日本海軍航空隊(航空母艦から発進)による真珠湾米海軍基地への奇襲攻撃成功に始まった先の大戦が、日本の惨めな大敗北に終わってから、やがて満70年になる。もっとも、対米英戦突入以前に対中国戦が進行中で、戦時体制下の一般国民の生活は食糧不足を中心に日常の消費財をも含めて、次第に困窮の度を増していた。
が、ここでは、それは省く。取り上げたいのは、戦中戦後期に比べた国民生活の驚異的ともいうべき極めて大きな変容ぶりで、それも著しく多岐にわたる。目につく主な変わりように限定せざるを得ないことを、最初にお断りしておく。
まず挙げたいのは、なんとか生活していけるかどうかの貧困のドン底から豊かな食生活への著しい変化で、もとより一朝一夕のことではないが、筆者のような軍隊生活体験世代からすると、全く夢の夢ともいうべき現実である。百貨店の食品売り場でもスーパーマーケットでも、内外産ともに多種多様の食品がずらり。高価な品も少なくない。食品類の国際化が著しく進んでいる。もちろん、高級の酒類も含めて。
こんな話がある。平和が戻って間もなくの昭和20年代初期の頃、東京6大学野球が復活し、東大と慶応がともに4勝1敗(当時は各1回戦)となった。優勝決定戦では慶応が勝って6大学野球を制した。この時、「慶応の選手は富裕層で東大の選手はそうでない。東大が優勝を逃したのは食べ物の量と質のせいだ」と東大生の中にささやく者がいた。笑い話の域を出ないが、富裕層を別として一般家庭は少なくも昭和20年代は食糧の確保に苦労を続けざるを得なかった。農家の庭先で食料品を売ってもらう「買い出し」が一般化していた。戦争体験世代にとっては思い出すのも不愉快なことだが、現役世代にはピンとくるまい。
テレビの登場と普及は欧米各国でも日本でも戦後のことだが、そのテレビとラジオを通じて、飲食物がらみの放送が実に多い。中にはスタジオに飲食物を持ち込んで放送担当スタッフが「おいしい」と強調してみせることさえ珍しくない。いわゆる本番とコマーシャルを通じて、“健康食品”や“健康飲料”などを紹介(有名タレントを登場させる事例も一般化している)するのも、飽食の時代を物語っている。ただし、食糧の輸入依存度がカロリー計算で50%をはるかに越えている状況は、この国が全体として豊かになり保有外貨も巨額に上ってはいるものの、小さくない不安がある。飽食は日本の豊かさを象徴する。ただし、日本の場合、輸出と輸入の順調な推移が不可欠の条件になっている。
次に挙げたいのは、日用語の国際化。大戦中も野球はあったが「セーフ」「アウト」「ストライク」「ボール」など、いずれも“敵性国家”の用語として禁止、ラジオのアナウンサーも「放送員」と言った。それが今日では「セーフ」「アウト」はもとより、放送関係でも「ディレクター、キャスター、アナウンサー、アンカー」など役割に応じて区別が生じている。テレビやラジオだけではない。社会一般の日用語にも片仮名語が目立って多くなっている。
片仮名語の増加は、貿易・資本取引・開発援助、情報交換、学問研究などいろいろな分野で国際交流が活発に進んでいることの反映である。さらに、海外からの日本観光、日本からの海外観光、ともに増勢を告げていることをも示す。私事になるが、筆者が欧州勤務で渡欧したのはまだ戦後色の去らぬ昭和30年、当時は海外出張にも出張の際に持っていく外貨の額にも、極めて厳しい制限があった。外貨そのものも、当時は1㌦=360円、香港の市場では1㌦が400円を超えていた。豊富な外貨を保有している今日、現役世代の諸兄には、これも想像外だろう。
想像外といえば、コンピューターの出現、音速を超えるジェット機の登場もそうだし、日本側からみて地球の裏側とも即時通話できる携帯電話の出現もそうである。東海道新幹線の開通(昭和39年)もまた、日本科学技術の水準の高さを内外に印象づける快挙だった。筆者は欧州勤務中にベルギーの首都ブリュッセルでの世界万博で「地球は青かった」のソ連(当時)のガガーリンが乗って世界をあっと言わせた宇宙船をじかに見たが、日本の科学技術の水準の高さは、軍事力強化に国力を多く集中した旧ソ連よりも、人類全体への貢献度が遙かに高いと信じている。ノーベル賞受賞者が相次いでいることも挙げなければならない。
以上、敗戦から再建を経て現在に至るまでこの国をめぐる重要な変容を例示的に振り返ったが、最後にもう一点、日本人の平均寿命が世界でも際立って大幅に伸びたこと――専門家の指摘――を挙げておきたい。
(おぜき・みちのぶ)