ケネディのイスラエル政策

佐藤 唯行獨協大学教授 佐藤 唯行

軍事バランスから支援

アラブ諸国寄りソ連に対抗

 第2次大戦勃発直後、ひとりのラビ(ユダヤ教の導師)がロンドンの米大使館を訪れていた。ナチス支配下の中欧に取り残された自分の妻子(米国籍者)の救出に助力を求めるためだった。やっとの思いで大使との面会に漕ぎつけたが、大使はラビを厄介者扱いし、冷淡な対応に終始した。憤慨したラビは、別れ際に呪いの言葉を投げつけた。「汝が我が子等に哀れみを示さなかったのと同じように、神は汝の子等に哀れみを示さぬだろう」。

 この呪いは成就し、大使の子等は信じ難い災禍に見舞われ続けるのであった。長男は大戦中、事故で死亡。次男・三男は暗殺者の凶弾に倒れ、次女は墜落死という凄まじさだ。大使の名はジョゼフ・P・ケネディ。その次男とは第35代米大統領ジョン・F・ケネディに他ならない。このエピソードは「ケネディ家の呪い」として在米ユダヤ人の間で秘かに語り継がれてきた伝承なのである。

 父ケネディは駐英大使在任中、ナチス・ドイツとの宥和(ゆうわ)・共存を策し、ホロコーストにすら目をつむった「ナチスの同調者」と目され、在米ユダヤ社会では大層評判が悪かった。

 一方、次男のジョンは野心、好色ぶり等、父から多くの気質を受け継いだが「ユダヤ人への偏見」だけは継承しなかった。そんな彼にとり政界デビューの際、是非とも払拭(ふっしょく)せねばならなかったのが「ナチスの同調者の伜(せがれ)」という悪評だった。そこでジョン・ケネディは地元選挙区内のユダヤ人集住地区に足繁く通い、次のように率直に語りかけることで、何とか信頼獲得に成功したのだ。「確かに私は彼の伜です。私は父と縁を切ることはできません。けれど私は父とは違う考えの持ち主なのです。…私は自分が正しいと考えたことを行うつもりです」。

 1960年の選挙でも対立候補はこの古傷を持ち出してきた。しかし、有権者の関心を殆ど集めることはできなかった。何故なら60年選挙、最大の争点は保守対リベラルを巡る対立であり、保守派はニクソンに投票し、リベラル派はケネディに投票したからである。

 大統領に当選後、ケネディが下した最も重要な対イスラエル政策の転換は62年8月のホークミサイルの売却決定であった。48年のイスラエル建国以来、歴代米政権はイスラエルに対する主要兵器の売却を一貫して拒否し続けてきた。一回でもそれを行えば、それが先例となり、アメリカはイスラエルの「主要武器供給国」となり、反発したアラブ諸国を一層ソ連になびかせてしまうことを警戒したからである。ケネディによる今回の売却決定は長らく続いた米政府による対イスラエル武器禁輸措置を覆す歴史的事件だったわけである。ホークは飛来する飛行物体を空中で迎撃できる自動誘導式の短距離地対空ミサイルであった。攻撃用ではなく、あくまで防衛用ということで、ケネディ政権は米国務省の反対を押し切って売却を認めさせたのだ。

 売却条件についても米国務省からは現金の即金払いという厳しい条件が出されたが、ケネディが下した条件は年利3・5%、10年間の分割払いという寛大なものであった。こうして購入されたホークミサイルはイスラエルの核施設を防衛するため、その周囲に配備されたのであった。

 この売却決定を実現させた主要因は中東における軍事バランスの急変であった。ソ連製新鋭軍用機の大量供与を得て、にわかに重武装化しつつあるナセル政権のエジプトを安全保障上の脅威と認識したわけだ。「ミグ19は当時のイスラエルの主力戦闘機(仏製ミラージュ)より優れており、ホークミサイルの助けなしにはイスラエルは危機に陥るだろう」という駐米イスラエル大使の警告にケネディは同調したわけである。

 62年11月の中間選挙を目前にしたケネディが在米ユダヤ票とユダヤ・マネー欲しさに売却決定に踏み切ったという解釈は誤りではないが、あくまで二次的原因説明とみなすべきであろう。ケネディ政権下、ユダヤ・ロビーはそれほど強力ではなかったからだ。後に「ユダヤ・ロビーの横綱」と仇名(あだな)されるAIPACといえど、議会に足場を築きつつある途上にあり、また大統領府への強い影響力を持つロビーは未だ登場していなかった点は忘れてはならない。

 ケネディは安全保障強化を望むイスラエル側のニーズを理解し、中東での軍事バランスの相殺化を図るため「イスラエルに主要兵器を売らぬ」という彼以前の歴代米大統領の政策を放棄した。けれど「公然たる米・イスラエル同盟」の構築には否定的であったという点は強調すべきであろう。中東からソ連を締め出すにはアラブ諸国との友好関係は極めて重要であると考えており、「同盟」を結ぶことで、その友好関係を失いたくなかったからである。

 ケネディは後継者ジョンソンと異なり、イスラエルに対する攻撃用主要兵器の安定供給をついに約束しなかった。以上の事例から言えることは何か。それは今日見られる「公然たる米・イスラエル同盟」は長い紆余曲折を経て、徐々に形成されていったという点につきるであろう。

(さとう・ただゆき)